MENEHUNE BEACH STORE 店主のブログ
ブログ内検索
カテゴリー
プロフィール
HN:
menehune
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/09/15
職業:
サーフショップやってます
趣味:
ランニング、作文、お絵かき、料理、丸太切り、丸太割り、波乗り
自己紹介:
ショップのオープンは2001年。それ以来、ロングボードをベースに、フィッシュ、ボンザー、シングルフィン、ニーボード、パイポとさまざまな種類のサーフボードを作り、試してきました。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
アーカイブ
カウンター
ショップには昔のサーフムービーのポスターや、サーフィンにまつわる諸々古いものがいろいろとあります。ちょっと前まではヴィンテージボードもありました。古いものが好きなのは、サーフィン以外の分野にも興味が広がりますが、それらをコレクションしようという発想はこれっぽっちもありません。
どちらかと言うと断捨離タイプで、物がたくさんあるのは嫌い 笑。自分自身の生活はできるだけシンプルに持ち物は少ない方がいいのですが、それでも古いものは好きでいろいろと見てみたい。
それで最近思いついたのがデータだけの「E-コレクション」。これなら物は増えないし、保管場所も不要だしコストもかかりません。画像データだけでもインスピレーション湧いてきます。
そんなコレクションがこれです。世界のヴィンテージサーフボード。
こんなん凄いでしょ。WAVE SETのフィンシステムを使った、おそらく60年代の終わりごろのボードです。シェイプはハル。グラフィックもイケてます。
こっちは、世界のヴィンテージニーボード 笑。
70年代のCROZIER ニーボード フレックステイル。私のシングルフィンニーと似てます。
整理はマウスの指先ひとつでOK。ホコリもつきません。皆さんからいただいたオーダーのボードも最初の頃からほとんど全部、こんな感じでコレクションしています。
明日の朝は風が弱まります。早朝はオフへ回っている可能性もありますので、海水浴場の規制が入る前に楽しんじゃいましょう。
どちらかと言うと断捨離タイプで、物がたくさんあるのは嫌い 笑。自分自身の生活はできるだけシンプルに持ち物は少ない方がいいのですが、それでも古いものは好きでいろいろと見てみたい。
それで最近思いついたのがデータだけの「E-コレクション」。これなら物は増えないし、保管場所も不要だしコストもかかりません。画像データだけでもインスピレーション湧いてきます。
そんなコレクションがこれです。世界のヴィンテージサーフボード。
こんなん凄いでしょ。WAVE SETのフィンシステムを使った、おそらく60年代の終わりごろのボードです。シェイプはハル。グラフィックもイケてます。
こっちは、世界のヴィンテージニーボード 笑。
70年代のCROZIER ニーボード フレックステイル。私のシングルフィンニーと似てます。
整理はマウスの指先ひとつでOK。ホコリもつきません。皆さんからいただいたオーダーのボードも最初の頃からほとんど全部、こんな感じでコレクションしています。
明日の朝は風が弱まります。早朝はオフへ回っている可能性もありますので、海水浴場の規制が入る前に楽しんじゃいましょう。
RAOラジオ小笠原。グライダーに乗るお話と、「ビーチカルチャージャーナリスト」池田潤さんのお話はサーフィンのスタンスのお話。かなり面白いです。ちなみに私はレギュラースタンスですが、ニーボードではレフトが得意です。2020年12月19日をクリックしてください。
www.radio-rao.com
暖かい部屋で、お茶でも飲みながらのんびり聞いてください。
www.radio-rao.com
暖かい部屋で、お茶でも飲みながらのんびり聞いてください。
カツカワミナミサーフボード BONITAフィッシュのユーズドが入荷しました。グッドコンディションの5’6”です。サイトチェックしてください。
さて、時代が変わったなあと改めて感じさせるニュースがありました。アメリカの一番古いサーフィン雑誌のサーファーマガジンが廃刊になったそうです。インターネットというツールの進化と普及で、紙に印刷された媒体が利益を上げつつ存続していくことが大変になっている世の中では仕方が無いことかもしれません。時代の流れとは言え、やっぱり寂しいものはあります。
サーファーマガジンを1960年に創刊したジョン・セバーソンは2017年に亡くなりました。彼のアートを扱っていたこともあって、メールのやりとりをしていた時期もあります。サーファーマガジンはそもそも、ジョン・セバーソンの「SURF FEVER」という映画の宣伝のために作られた、映画に登場するサーファーたちの写真とボードメーカーの広告を載せた30ページちょっとのフォトブックからスタートしました。
店の壁に何気なくぶら下がっていますが、これがそのTHE SURFERを宣伝するための当時のポスターです。1ドル50セントとあります。
上のポスターはオリジナルですが、これはサーファーマガジンの25周年号(85年ですね)の誌上で復刻された創刊号の表紙の部分です。
上のページには、当時の編集長のスティーブ・ペズマンの文章が載っています。創刊号が発売された当時のことをコーキー・キャロルに聞いているという内容です。
当時、まだ学生だったコーキーは母親から1ドル50セントをもらって、ハンティントンのロバートオーガストのショップに本が無くならないうちに急いで買いに行ったと書かれています。
そして本の中の、ランスカーソンのノーズライド、リンコンのケンプ・オバーグとイエイター、ハワイの大波のパット・カレンの写真を何時間もずっと見て、それの真似をしたと言っています。
1960年にわずかなページでスタートしたサーファーマガジンですが、写真、文章、アートなどでサーフィンを表現するいわゆるサーフカルチャーはそこから生まれてきたものです。
写真では、リロイ・グラニス、ロン・ストナー、ジェフ・ディバイン、アート・ブリューワー、ウォーレン・ボルスター。アートはリック・グリフィンやジョン・ハマースフェルド(エンドレス・サマーのポスターのデザイナー)
私の知識が60年代、70年代に偏っているので人名もその時代に偏っていますが、その後もサーフィンに関する文化を生み出してきたのがサーファーマガジンでした。
70年代に入ってジョン・セバーソンからスティーブ・ペズマンへと編集長は変わりましたが、そのスティーブ・ペズマンは、今はサーファーズ・ジャーナルの発行人です。
有名フォトグラファーによる有名サーファーの写真、文章を書くライター、デザイナー、広告といったサーフメディアのあり方だけでなく、サーフィン業界そのものがこの1960年のTHE SURFERから始まったサーファーマガジンによって作られてきたのですが、創刊から60年が経った2020年にその役目を終えたのです。
おそらくネット上でサーフメディアとして残っていくとは思います。(プリントされた文字という意味での)活字中毒の私としては、ネットのメディアは一過性に過ぎない軽いものに思えて仕方が無いのですが(文章も書いた人が明らかに読書をしていないと思われるような作文的なものも多いです)、時代はそちらへ流れていることを受け入れざるを得ないことを改めて認識させられた、サーファーマガジン廃刊のニュースでした。
ブルース・ブラウンのエンドレスサマーを見て、ロングボードをチョイスしたということは以前にも何度か書いていますので、みなさん既にご承知のことだと思います。
それのベースになっているのは、それより先に見たこの映画かもしれません。ご存知、ビッグウェンズデーです。
これを見たのは高校生だったと思います。確か、テレビの水曜ロードショーみたいな番組でのことです。中学生の頃に雑誌のポパイでサーフィンというものを知り、海で遊ぶのが好きだった少年はサーフィンに多いに興味を持っていました。
それで、サーフィンの映画をやるらしいぞと見たのがビッグウェンズデーでした。
そのときにいちばん強烈に印象に残ったのは、波を滑っているサーフボードの上をジャン・マイケル・ビンセントが歩いているシーンでした(実際には、イアン・カーンズかもですが)。
そのスタイルを見てすげーかっこいいと夢中になってしまいました。ウォーキングだけでなく、おそらくロングボードを操っているスタイル全般だったと思いますが、足をスッスッと前に出す動きが特に衝撃的だったのです。
歩いているだけですが、背筋を伸ばしてボードの上を歩くウォーキングのスタイルは他には無いものだったからかもしれません。それがめちゃくちゃカッコよく少年の眼に映ったのです 笑。
きっとそれがサーフィンに対するイメージとして強く残っていたんだと思います。だから、それから10年近く経って、エンドレスサマーを見たときに「これだー!」って、なったに違いありません。
今でもビッグウェンズデーのこの夏のシーンが好きです。人生、楽しかったことしか記憶に残っていない私ですが(笑)そういうのを象徴しているようなシーンです。
最近はあんまり聞かなくなってしまったハワイアンですが、このシーンでスラックキーの曲にもはまりました。そろそろ夏だし、久しぶりにハワイアンのCDを引っ張り出して聞いてみるのもいいかな。
このシーンで使われている曲です。
それのベースになっているのは、それより先に見たこの映画かもしれません。ご存知、ビッグウェンズデーです。
これを見たのは高校生だったと思います。確か、テレビの水曜ロードショーみたいな番組でのことです。中学生の頃に雑誌のポパイでサーフィンというものを知り、海で遊ぶのが好きだった少年はサーフィンに多いに興味を持っていました。
それで、サーフィンの映画をやるらしいぞと見たのがビッグウェンズデーでした。
そのときにいちばん強烈に印象に残ったのは、波を滑っているサーフボードの上をジャン・マイケル・ビンセントが歩いているシーンでした(実際には、イアン・カーンズかもですが)。
そのスタイルを見てすげーかっこいいと夢中になってしまいました。ウォーキングだけでなく、おそらくロングボードを操っているスタイル全般だったと思いますが、足をスッスッと前に出す動きが特に衝撃的だったのです。
歩いているだけですが、背筋を伸ばしてボードの上を歩くウォーキングのスタイルは他には無いものだったからかもしれません。それがめちゃくちゃカッコよく少年の眼に映ったのです 笑。
きっとそれがサーフィンに対するイメージとして強く残っていたんだと思います。だから、それから10年近く経って、エンドレスサマーを見たときに「これだー!」って、なったに違いありません。
今でもビッグウェンズデーのこの夏のシーンが好きです。人生、楽しかったことしか記憶に残っていない私ですが(笑)そういうのを象徴しているようなシーンです。
最近はあんまり聞かなくなってしまったハワイアンですが、このシーンでスラックキーの曲にもはまりました。そろそろ夏だし、久しぶりにハワイアンのCDを引っ張り出して聞いてみるのもいいかな。
このシーンで使われている曲です。
今朝、歯を磨いているときにふと思い出したのがタイトルの「ノースショア」という映画。アメリカのユニバーサルピクチャーズ配給の1987年の映画です。
有体に言えばそれほど深い内容はない、青春と恋愛とサーフィンをストレートに描いた単純なストーリーの映画。これが結構面白いのです。ストーリーをすぐに思い出してこうやって書けるのは、なんだかんだ言いながらも何度か見ている証拠です。
ご存じの方は多いと思うし、知らない方にネタバレしたところで映画を見るのにそれほど影響は無さそうなので、どんどん書いちゃいます。
主人公のリック・ケイン(名前まで覚えてる)は、アリゾナのウェイブプールで波乗りを覚えた砂漠の街に住むサーファー。そのウェイブプールでのコンテストで優勝してもらった賞金で、アートスクールに進学する前に腕試しとオアフ島のノースショアへとやってきます。
ウェイブプールの波しか知らないのに、パーティで知り合ったロビーペイジやオッキー(どちらも本人)らといきなりノースの海に入っちゃうという無謀さで案の定、ダ・フーイのボスのライディングを邪魔して追い出されます。
このダ・フーイのボスの役をやっているのが、ジェリー・ロペスだったりして、見ていて嬉しくなっちゃうのです。
海に入っているあいだに荷物もお金も盗まれて途方にくれますが、ラッキーなことに(笑)ローカルファクトリーのサンディングマンと知り合い、さらにそのシェイパーに紹介され彼の家に滞在させてもらうことになり、そこでハワイの波に乗るための特訓がはじまります。
そうやってノースショアで過ごすうちに、地元の女の子と知り合い恋に落ちますが、よりによって彼女はダ・フーイのボス(ロペス)のいとこだったりして、ロコたちとの関係がいっそう大変なことに。
途中、コンテスト否定派のシェイパーといろいろとありつつも話は進んでいきますが、特訓で自信を得た主人公はこともあろうに、パイプラインマスターズにエントリーしちゃいます。
あとは80年代お得意のアメリカンサクセスストーリーのサーフィン版(笑)。特訓の成果を発揮してマスターズを勝ち進み、最後はダ・フーイのボスのロペスさんにも、コンテスト否定派だったシェイパーにも認められ、大団円でさわやかに終わります。
主人公がパイプラインにテイクオフしようと滑り出した瞬間にカメラが思い切り引いたら、レギュラーフッターのはずの主人公が突然グーフィーになっていて巨大なチューブに入って行くなど、いわゆるツッコミどころがたくさんあったと思うのですが、そういうのをまとめて許せちゃう気分で楽しめるのです。
それはたぶん、まわりを固める本物のサーファーたちが発しているオーラのおかげだと思います。
マスターズでファイナルを争うちょっとヒール役の相手は、レアード・ハミルトンです。役名がランス・バークハートなんて、いかにもな名前で笑っちゃいますがやっぱりかっこいいのです。
その他には、マーク・フー、デレク・ホー、ケン・ブラッドショウらが出ていたのを思い出せます。誰が出ているか探してみてださい。80年代のボードデザインやファッションなんかも見逃せません。
本職のサーファーじゃなかった出演者たち、主人公のリック・ケイン、シェイパーのチャンドラー、サンディングマンのタートルたちは、その後30年経ったいまも波乗り続けているそうです。
まだまだ梅雨で雨が続きますが、映画ノース・ショア見てじめじめを吹き飛ばしてください。
サントラもいいですよ。
有体に言えばそれほど深い内容はない、青春と恋愛とサーフィンをストレートに描いた単純なストーリーの映画。これが結構面白いのです。ストーリーをすぐに思い出してこうやって書けるのは、なんだかんだ言いながらも何度か見ている証拠です。
ご存じの方は多いと思うし、知らない方にネタバレしたところで映画を見るのにそれほど影響は無さそうなので、どんどん書いちゃいます。
主人公のリック・ケイン(名前まで覚えてる)は、アリゾナのウェイブプールで波乗りを覚えた砂漠の街に住むサーファー。そのウェイブプールでのコンテストで優勝してもらった賞金で、アートスクールに進学する前に腕試しとオアフ島のノースショアへとやってきます。
ウェイブプールの波しか知らないのに、パーティで知り合ったロビーペイジやオッキー(どちらも本人)らといきなりノースの海に入っちゃうという無謀さで案の定、ダ・フーイのボスのライディングを邪魔して追い出されます。
このダ・フーイのボスの役をやっているのが、ジェリー・ロペスだったりして、見ていて嬉しくなっちゃうのです。
海に入っているあいだに荷物もお金も盗まれて途方にくれますが、ラッキーなことに(笑)ローカルファクトリーのサンディングマンと知り合い、さらにそのシェイパーに紹介され彼の家に滞在させてもらうことになり、そこでハワイの波に乗るための特訓がはじまります。
そうやってノースショアで過ごすうちに、地元の女の子と知り合い恋に落ちますが、よりによって彼女はダ・フーイのボス(ロペス)のいとこだったりして、ロコたちとの関係がいっそう大変なことに。
途中、コンテスト否定派のシェイパーといろいろとありつつも話は進んでいきますが、特訓で自信を得た主人公はこともあろうに、パイプラインマスターズにエントリーしちゃいます。
あとは80年代お得意のアメリカンサクセスストーリーのサーフィン版(笑)。特訓の成果を発揮してマスターズを勝ち進み、最後はダ・フーイのボスのロペスさんにも、コンテスト否定派だったシェイパーにも認められ、大団円でさわやかに終わります。
主人公がパイプラインにテイクオフしようと滑り出した瞬間にカメラが思い切り引いたら、レギュラーフッターのはずの主人公が突然グーフィーになっていて巨大なチューブに入って行くなど、いわゆるツッコミどころがたくさんあったと思うのですが、そういうのをまとめて許せちゃう気分で楽しめるのです。
それはたぶん、まわりを固める本物のサーファーたちが発しているオーラのおかげだと思います。
マスターズでファイナルを争うちょっとヒール役の相手は、レアード・ハミルトンです。役名がランス・バークハートなんて、いかにもな名前で笑っちゃいますがやっぱりかっこいいのです。
その他には、マーク・フー、デレク・ホー、ケン・ブラッドショウらが出ていたのを思い出せます。誰が出ているか探してみてださい。80年代のボードデザインやファッションなんかも見逃せません。
本職のサーファーじゃなかった出演者たち、主人公のリック・ケイン、シェイパーのチャンドラー、サンディングマンのタートルたちは、その後30年経ったいまも波乗り続けているそうです。
まだまだ梅雨で雨が続きますが、映画ノース・ショア見てじめじめを吹き飛ばしてください。
サントラもいいですよ。
エンドレスサマーからサーフィンに入った私ですので、自分が求めるボードデザインの終着点のひとつとしてPIGという形がありました。数年間取り組んできた最終的な形としては、今乗っている白のピグメントの9’6”で納得していますし、かなり気に入っています。
なので、PIGはひとまず(自分的に)完成かと思っていたのですが、上のジョン・セバーソンの古いフィルムを見ていてあるイメージが頭に浮かんできました。
流れとしては、この納戸色のPIGから~
↓
この8’3”につながってきています。
この二本に共通するものをなんとなく感じていたのですが、上の映像を見ていてなんとなくピントが合ってきたような気がしています。
まだ思いつきです。でも、もしかしたらPIGがもっと面白くなるかもしれません。具体的な内容はもう少し煮詰めてからにしようと思いますので、しばらくお待ちください。
明日はお休みいたします。営業カレンダーはこちらをご覧ください。
FISH ON! 2003年10月 ’SURFER’より
「私は、つねにスピードを追求してきた。」 それは61歳のスキップフライにとっては自他ともに認める事実である。
「コンテストとはまったく違ったサーフィンなのです。テクニックではなくフィーリング、グライドなのです。」と言うのは、スキップの教えの下にフィッシュを作っている、30歳のシェイパー、クリス・クリステンソン。2人はサンディエゴが生み出したこのボードデザインについて、サンディエゴのスキップ・フライの仕事場で、30年という歳月に隔てられてはいるがそれぞれのサーフボードの進歩を見てきた2人のシェイパーとして語り合っていた。
FISHは短く、幅が広くフラットでボリュームがある。そして二つのキールフィンと二つに分かれたテールの形状をしている。スキップは、それが60年代のサーフボード革命のなかで生み出され、長い年月の間にデザインに多少の変化があったものの、過去の遺物としてではなく、現代でも十分に通用するデザインだと考えている。
短く、幅が広いトライフィンをフィッシュという名前で呼ぶことがあるが、これはフィッシュと呼ぶのは完全な間違いであり、(クラッシックな)フィッシュデザインに愛着を持ち、影響を受けて作られたフィッシュボードは本当に少ない。サンディエゴのサーファーとシェイパーは長い間、フィッシュがはじめて使われたサンセットクリフの波を守ってきたのと同様に、自分たちが生み出したフィッシュデザインを伝承しつづけてきた。
フィッシュのクラッシックなウッドキールフィンを最初に作ったラリー・ゲファートは言う、二つに分かれたテールの先端の幅が、9.5インチ以上ないとダメだ。そうでないとスワローテールになってしまい、フィッシュの感覚は失われてしまう…。
その感覚っていうのは?
俺たちはそれを「BAR OF SOAP」(石鹸)と呼んでいる。ラリー・ゲファートは続けた、そいつに立ち上がって乗ったとき、足元からそいつが溢れだしてくるんだ。
フィッシュが登場したのは1960年代後期、その当時はサーファーにとって混乱の時代でもあった。デザインとスタイルは常にはげしく変化し続け、実際に海に出て波に乗る行為だけでなく、想像力を働かせ革新することも‘サーフィン‘であった時代であった。
1966年 サンディエゴのニーボーダー、スティーブ・リズはサンセットクリフの波に乗る為、壊れたロングボードのグラスファイバーを剥がし短く作り変えていった。そのボードは、ウッドボードの時代に作られていた二股に分かれたテール形状のサーフボードとニーボードのツィンフィンをミックスさせ、ダブルピンテールの両方のテールにフィンが付いている物であった。そのボードはフラットでスピード出て、当時まだラインアップにいた重たいロングボードと較べて、ダイナミックなマニューバーを描くことができた。スティーブ・リズ自身すぐれたサーファーであり、彼のヒザの下から新しい時代が生まれてきたのである。
ラリー・ゲファートは当時 スティーブ・リズのフィッシュを手に入れた一人であったが、もともと彼は木を削りスケートボードのデッキを作る職人であった。その経験からラリー・ゲファートは木を薄くけずり、ファイバーグラス製のフィンよりも軽く、フレックスする木製のフィンを考案したのであった。今日では、スティーブ・リズのデザインとラリー・ゲファートのウッドフィンは切り離して考えることができないものになっている。
「ラリー・ゲファートのフィンがなかったら、ピーナッツバターの入っていないピーナッツサンドを食べるようなものだよ」初期からのフィッシュの愛好家であるスキップは言う。70年代の初めまでには、サンディエゴのサーファーのほとんどがフィッシュを持っていたんだ。
それからすぐに、サンディエゴ以外のサーファーにもフィッシュは伝わっていった。ハンティントンビーチにフィッシュを‘輸入’したデヴィッド・ヌヒワは、あたかもフィッシュの考案者の1人のようにふるまった。血の気の多いサンセットクリフのローカルたちは、1972年のオーシャンビーチでデヴィッド・ヌヒワが乗ったフィッシュを盗みだし、ぺちゃんこになるほど叩きのめし、オーシャンビーチのピアにぶら下げた。ボードには、まるで墓標のように「good luck Dave」と書かれていた。
一時代を築いたオーストラリアのマークリチャーズのツィンフィンも75年、リノ・アベリラがコンテストで使ったフィッシュを元に考案されたものだった。同年、バンカー・スプレクルスは、ジェフリーズ・ベイをスティーブ・リズのクラッシックフィッシュで滑走。ジェフリーズベイの波にフィッシュのトラックを刻み付けた。このことは、20年以上も語り継がれ、近年では同じくジェフリーズベイにおいてデレク・ハインドが、スキップのフィッシュを使い同じラインで滑ってみせた。
デレクのライディングとスキップのボードは、アンダーグラウンド的に盛り上がりをみせ、少しづつではあるが、クラッシックフィッシュを手がけるシェイパーも増えてきた。
「フィッシュからは本当に多くのことを学んだよ。」とダン・マロイは言う。彼は、スラスターで育ったプロサーファーの1人であるが、このところ一部のプロサーファーたちの間ではフィッシュを使ってのパフォーマンスが再び試されている。「スラスターは、細かく動いてパーフォーマンスには良いんだけど、フィッシュに乗ると波のエネルギーを感じることができる。波の高い位置でのライン、スピードとフロー、それがフィッシュなんだ。最初は、どうやって乗るのかさえわからなかったよ。でも慣れてきたら、そのボードを褒めちぎってやりたくなったんだ」 リズは、現在でも彼の親しい友人たちのために、僅かにフィッシュを削っているが、昔からフィッシュを削るシェイパーたちは間違いなく、ダン・マロイの言葉と同じことを考えながらシェイプし続けてきたのだろう。
スキップ・フライのフィッシュの四ヶ月待ちオーダーリストは、これからのフィッシュの時代に対する暗示なのかもしれない。
以上は、2003年10月のSURFERマガジンの記事を翻訳したものです。年齢などは当時のものです。
2004年9月、当時まだスキップ・フライの隣の建物でシェイプとグラッシングをやっていたクリス・クリステンソンを訪ねてカリフォルニアへ行ったことがあります。
その頃すでにクリステンソンは、よく知られたフィッシュのシェイパーで、出荷直前のフィッシュに貼り付けられたオーダーシートにジャック・ジョンソンの名前を見つけたこともありました。
スキップ・フライのシェイプルームの奥にある、ボードのコレクションを見せていただいたことを、ある雑誌の記事に書いたことがありましたが、こんなことを書いていました。
鍵を開け中へ入る。壁のラックには様々な長さのフィッシュ、11フィートオーバーのグライダーからジョージ・グリノーのニーボードまで、膨大な量のコレクションが並べられている。スキップはそこから1本づつボードを取り出し説明してくれる。シェイプルームには削りかけのグライダーが置かれていた。
短時間のあいだに南カリフォルニアのサーフィンを60年代から現代まで早回しで見せられた気分だった。時代は回る。優れたものは、少しの間忘れられたとしても必ずまた見直され帰ってくる。そうやって偉大な先人たちのスピリットは受け継がれていくのだろう。
60年代から70年代にかけて作られ、2000年に入ってからリバイバルしたフィッシュは、一時期少なくなりましたが、また最近興味を持つ人が増えてきていると思います。
外観もライディングもフィッシュには独特のものがあります。あらためて考えてみてもフィッシュというのは、やっぱり魅力的です。
自分が5’6”というサイズにまだ乗れて、しかも楽しめるのはやはりフィッシュのおかげ(そして活さんのシェイプのおかげ)なのだと思います。
「私は、つねにスピードを追求してきた。」 それは61歳のスキップフライにとっては自他ともに認める事実である。
「コンテストとはまったく違ったサーフィンなのです。テクニックではなくフィーリング、グライドなのです。」と言うのは、スキップの教えの下にフィッシュを作っている、30歳のシェイパー、クリス・クリステンソン。2人はサンディエゴが生み出したこのボードデザインについて、サンディエゴのスキップ・フライの仕事場で、30年という歳月に隔てられてはいるがそれぞれのサーフボードの進歩を見てきた2人のシェイパーとして語り合っていた。
FISHは短く、幅が広くフラットでボリュームがある。そして二つのキールフィンと二つに分かれたテールの形状をしている。スキップは、それが60年代のサーフボード革命のなかで生み出され、長い年月の間にデザインに多少の変化があったものの、過去の遺物としてではなく、現代でも十分に通用するデザインだと考えている。
短く、幅が広いトライフィンをフィッシュという名前で呼ぶことがあるが、これはフィッシュと呼ぶのは完全な間違いであり、(クラッシックな)フィッシュデザインに愛着を持ち、影響を受けて作られたフィッシュボードは本当に少ない。サンディエゴのサーファーとシェイパーは長い間、フィッシュがはじめて使われたサンセットクリフの波を守ってきたのと同様に、自分たちが生み出したフィッシュデザインを伝承しつづけてきた。
フィッシュのクラッシックなウッドキールフィンを最初に作ったラリー・ゲファートは言う、二つに分かれたテールの先端の幅が、9.5インチ以上ないとダメだ。そうでないとスワローテールになってしまい、フィッシュの感覚は失われてしまう…。
その感覚っていうのは?
俺たちはそれを「BAR OF SOAP」(石鹸)と呼んでいる。ラリー・ゲファートは続けた、そいつに立ち上がって乗ったとき、足元からそいつが溢れだしてくるんだ。
フィッシュが登場したのは1960年代後期、その当時はサーファーにとって混乱の時代でもあった。デザインとスタイルは常にはげしく変化し続け、実際に海に出て波に乗る行為だけでなく、想像力を働かせ革新することも‘サーフィン‘であった時代であった。
1966年 サンディエゴのニーボーダー、スティーブ・リズはサンセットクリフの波に乗る為、壊れたロングボードのグラスファイバーを剥がし短く作り変えていった。そのボードは、ウッドボードの時代に作られていた二股に分かれたテール形状のサーフボードとニーボードのツィンフィンをミックスさせ、ダブルピンテールの両方のテールにフィンが付いている物であった。そのボードはフラットでスピード出て、当時まだラインアップにいた重たいロングボードと較べて、ダイナミックなマニューバーを描くことができた。スティーブ・リズ自身すぐれたサーファーであり、彼のヒザの下から新しい時代が生まれてきたのである。
ラリー・ゲファートは当時 スティーブ・リズのフィッシュを手に入れた一人であったが、もともと彼は木を削りスケートボードのデッキを作る職人であった。その経験からラリー・ゲファートは木を薄くけずり、ファイバーグラス製のフィンよりも軽く、フレックスする木製のフィンを考案したのであった。今日では、スティーブ・リズのデザインとラリー・ゲファートのウッドフィンは切り離して考えることができないものになっている。
「ラリー・ゲファートのフィンがなかったら、ピーナッツバターの入っていないピーナッツサンドを食べるようなものだよ」初期からのフィッシュの愛好家であるスキップは言う。70年代の初めまでには、サンディエゴのサーファーのほとんどがフィッシュを持っていたんだ。
それからすぐに、サンディエゴ以外のサーファーにもフィッシュは伝わっていった。ハンティントンビーチにフィッシュを‘輸入’したデヴィッド・ヌヒワは、あたかもフィッシュの考案者の1人のようにふるまった。血の気の多いサンセットクリフのローカルたちは、1972年のオーシャンビーチでデヴィッド・ヌヒワが乗ったフィッシュを盗みだし、ぺちゃんこになるほど叩きのめし、オーシャンビーチのピアにぶら下げた。ボードには、まるで墓標のように「good luck Dave」と書かれていた。
一時代を築いたオーストラリアのマークリチャーズのツィンフィンも75年、リノ・アベリラがコンテストで使ったフィッシュを元に考案されたものだった。同年、バンカー・スプレクルスは、ジェフリーズ・ベイをスティーブ・リズのクラッシックフィッシュで滑走。ジェフリーズベイの波にフィッシュのトラックを刻み付けた。このことは、20年以上も語り継がれ、近年では同じくジェフリーズベイにおいてデレク・ハインドが、スキップのフィッシュを使い同じラインで滑ってみせた。
デレクのライディングとスキップのボードは、アンダーグラウンド的に盛り上がりをみせ、少しづつではあるが、クラッシックフィッシュを手がけるシェイパーも増えてきた。
「フィッシュからは本当に多くのことを学んだよ。」とダン・マロイは言う。彼は、スラスターで育ったプロサーファーの1人であるが、このところ一部のプロサーファーたちの間ではフィッシュを使ってのパフォーマンスが再び試されている。「スラスターは、細かく動いてパーフォーマンスには良いんだけど、フィッシュに乗ると波のエネルギーを感じることができる。波の高い位置でのライン、スピードとフロー、それがフィッシュなんだ。最初は、どうやって乗るのかさえわからなかったよ。でも慣れてきたら、そのボードを褒めちぎってやりたくなったんだ」 リズは、現在でも彼の親しい友人たちのために、僅かにフィッシュを削っているが、昔からフィッシュを削るシェイパーたちは間違いなく、ダン・マロイの言葉と同じことを考えながらシェイプし続けてきたのだろう。
スキップ・フライのフィッシュの四ヶ月待ちオーダーリストは、これからのフィッシュの時代に対する暗示なのかもしれない。
以上は、2003年10月のSURFERマガジンの記事を翻訳したものです。年齢などは当時のものです。
2004年9月、当時まだスキップ・フライの隣の建物でシェイプとグラッシングをやっていたクリス・クリステンソンを訪ねてカリフォルニアへ行ったことがあります。
その頃すでにクリステンソンは、よく知られたフィッシュのシェイパーで、出荷直前のフィッシュに貼り付けられたオーダーシートにジャック・ジョンソンの名前を見つけたこともありました。
スキップ・フライのシェイプルームの奥にある、ボードのコレクションを見せていただいたことを、ある雑誌の記事に書いたことがありましたが、こんなことを書いていました。
鍵を開け中へ入る。壁のラックには様々な長さのフィッシュ、11フィートオーバーのグライダーからジョージ・グリノーのニーボードまで、膨大な量のコレクションが並べられている。スキップはそこから1本づつボードを取り出し説明してくれる。シェイプルームには削りかけのグライダーが置かれていた。
短時間のあいだに南カリフォルニアのサーフィンを60年代から現代まで早回しで見せられた気分だった。時代は回る。優れたものは、少しの間忘れられたとしても必ずまた見直され帰ってくる。そうやって偉大な先人たちのスピリットは受け継がれていくのだろう。
60年代から70年代にかけて作られ、2000年に入ってからリバイバルしたフィッシュは、一時期少なくなりましたが、また最近興味を持つ人が増えてきていると思います。
外観もライディングもフィッシュには独特のものがあります。あらためて考えてみてもフィッシュというのは、やっぱり魅力的です。
自分が5’6”というサイズにまだ乗れて、しかも楽しめるのはやはりフィッシュのおかげ(そして活さんのシェイプのおかげ)なのだと思います。
映画「JAPANESE BREAK」観てきました。上映時間の関係で、全四部作の構成のうちの二つのパートの上映でした。
日本の波乗りの黎明期に、何も無いところからサーフィンを作ってきた人たちの物語と、ハワイでデューク・カハナモクの時代のホローボードを作っていた、日系人の船大工とサーファーの話です。
サーフィンが生まれたハワイで、サーフボードがアライアのようなソリッドボードから、中空のホローボードへと進化した背景に日本人の存在があったということはこれまで知られていなかった事実で、とても興味深い話でした。
日系の船大工が作ったサーフボードにワイキキのビーチボーイが乗り、その一人であるデューク・カハナモクがサーフィンのアンバサダーとして、アメリカやオーストラリアでデモンストレーションを行った結果、世界各地へサーフィンという波に乗るスポーツが広まっていったのです(大正時代のことです)。
そうやって各地に広まったサーフィンを日本にもたらしたのが、戦後の日本へやってきたアメリカ人たちです。ハワイの日系人が作ったサーフボードがカリフォルニアでフォームのボードへと進化し、日本へ持ち込まれたことでひとつの大きな輪ができあがります。
その輪がつながったところから日本のサーフィンは始まったということは、何かとても面白いことのように思います。
湘南、千葉、そして東京。それぞれ関係が無い場所で、同時発生的にサーフボードを作りはじめる人たちが登場してくるのは、そのあとの時代におけるサーフィンの広まりを象徴しているように思います。
それぞれの場所のそれぞれの人たちのあいだで、それぞれの文化が作られたものが現在につながって来ています。皆さんが乗っているサーフボードをシェイプしているのも、その当事者の中のひとりである川南活さんです(もちろん活さんも映画に登場しています)。
そう考えると、当たり前のことですが歴史というものは、つながっているんだなあとあらためて実感します。
新しいサーフボードを手に入れたときのあの感じ、思い出してみてください。私自身、これまでたくさんのサーフボードを作ってきましたが、新しいサーフボードを手にするときのあの嬉しさは、昔から全く変わりません。
皆さんもきっと同じだと思いますし、その感覚は昔から変わらないはずです。波乗りの歴史は(日本に限らず)そうやってつながってきたんだと思います。
「JAPANESE BREAK」昔の話では無く、現代、そして未来へつながる話なんだと思いました。
時間の関係で上映できなかった他の二つのパートも見たいです。
Create your own visitor map!