MENEHUNE BEACH STORE 店主のブログ
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プロフィール
HN:
menehune
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/09/15
職業:
サーフショップやってます
趣味:
ランニング、作文、お絵かき、料理、丸太切り、丸太割り、波乗り
自己紹介:
ショップのオープンは2001年。それ以来、ロングボードをベースに、フィッシュ、ボンザー、シングルフィン、ニーボード、パイポとさまざまな種類のサーフボードを作り、試してきました。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
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原子力発電が電力の総発電量に占めていた割合は2009年度で全体の約30パーセント。この原発分の発電量を差し引いた残りの電力量は、1985年度のピーク時の消費電力量を少しだけ上回っているそうです。つまり1985年当時の生活をすれば電力は足りるということです。
ちょっと思い出してみましょう。1985年、私は21歳。大学生でした。目黒区碑文谷で一人暮らしのアパートにはクーラーのみのエアコンがついていました。エアコンは普及していましたが、電車にはまだそれほどついていなかったと思います。夏は扇風機でたまに冷房がついた車両に乗るとラッキーという感じでした。自動改札は少なくて、駅員さんがハサミをカチャカチャと言わせながら凄い勢いで改札していました。ゲームはファミコンでスーパーマリオ。音楽メディアはカセットテープとレコードからCDへとちょうど移行している時期でした。持ち歩く音楽はウォークマン。充電式ではなく乾電池を使っていました。
ライトアップなどという考えはなくて、夜はそれなりに暗かったと思います。渋谷の交差点にあるような大画面のスクリーンは新宿のアルタくらいだったかな?デパートの営業時間は夕方の5時か6時まで。コンビニはまだまだ少なくて、夜中にいなり寿司が食べたくなるケイコさんがおしゃれだったりしたのです。
当時なかったものをざっと考えると、携帯電話、PC、デジカメ、オール電化住宅、交通機関の空調、駅のエスカレーターやエレベーター、街中の明かり、ありすぎるくらいにあるコンビニ。その他の商店の数は比較にならないくらい増えているし、営業時間も長時間になっています。小家族化がすすんで世帯数が増えているのも電力消費のベースアップに貢献しています。
電気製品の省電力化は昔よりも比べ物にならないくらいすすんでいるはずなので、1985年と同じ電力量でできることは違ってくると思いますが、それにしても現在身の回りで電気を使うモノ、使わなければ動かないものがなんと多いことか。それらが無かった1985年の暮らしが不便だったかというと全くそんな記憶はありません。経済活動の面で見れば、世の中はむしろ今よりもずっと元気だったと思います(バブル初期だったこともありますが…)
でもきっと1985年の暮らしはもう出来ない。一度味わってしまった便利さは捨てることができないのが人間の欲というものです。原発は嫌だけど、不便になるのも嫌なのです。(進歩の原動力もまた欲か)
地震と津波は天災ですが、原発事故は人災です(地震がすべて悪いと言う呆れた政治家もいますが…こういうときにこそ誰が何を言ったかちゃんと覚えておきましょう)人災はその言葉どおり、人間が原因で引き起こされた災いのことです。その「人間」はイコール「自分」だと私は考えます。自分が変わらなければ何も変わらない。
不便になるのは確かに嫌なことですが、それが自分の大切な人を守るためならそんなに嫌なことじゃないと思うのです。
私自身はそんなに好きというわけではありませんでしたが、小中高と仲が良かった友達が好きだったので、なんとなく聞いていた浜田省吾さん。今改めてこの曲を聴いてみてはじめて曲の歌詞が理解できました。
人を変える一番大きな力は「知ること」です。
ちょっと思い出してみましょう。1985年、私は21歳。大学生でした。目黒区碑文谷で一人暮らしのアパートにはクーラーのみのエアコンがついていました。エアコンは普及していましたが、電車にはまだそれほどついていなかったと思います。夏は扇風機でたまに冷房がついた車両に乗るとラッキーという感じでした。自動改札は少なくて、駅員さんがハサミをカチャカチャと言わせながら凄い勢いで改札していました。ゲームはファミコンでスーパーマリオ。音楽メディアはカセットテープとレコードからCDへとちょうど移行している時期でした。持ち歩く音楽はウォークマン。充電式ではなく乾電池を使っていました。
ライトアップなどという考えはなくて、夜はそれなりに暗かったと思います。渋谷の交差点にあるような大画面のスクリーンは新宿のアルタくらいだったかな?デパートの営業時間は夕方の5時か6時まで。コンビニはまだまだ少なくて、夜中にいなり寿司が食べたくなるケイコさんがおしゃれだったりしたのです。
当時なかったものをざっと考えると、携帯電話、PC、デジカメ、オール電化住宅、交通機関の空調、駅のエスカレーターやエレベーター、街中の明かり、ありすぎるくらいにあるコンビニ。その他の商店の数は比較にならないくらい増えているし、営業時間も長時間になっています。小家族化がすすんで世帯数が増えているのも電力消費のベースアップに貢献しています。
電気製品の省電力化は昔よりも比べ物にならないくらいすすんでいるはずなので、1985年と同じ電力量でできることは違ってくると思いますが、それにしても現在身の回りで電気を使うモノ、使わなければ動かないものがなんと多いことか。それらが無かった1985年の暮らしが不便だったかというと全くそんな記憶はありません。経済活動の面で見れば、世の中はむしろ今よりもずっと元気だったと思います(バブル初期だったこともありますが…)
でもきっと1985年の暮らしはもう出来ない。一度味わってしまった便利さは捨てることができないのが人間の欲というものです。原発は嫌だけど、不便になるのも嫌なのです。(進歩の原動力もまた欲か)
地震と津波は天災ですが、原発事故は人災です(地震がすべて悪いと言う呆れた政治家もいますが…こういうときにこそ誰が何を言ったかちゃんと覚えておきましょう)人災はその言葉どおり、人間が原因で引き起こされた災いのことです。その「人間」はイコール「自分」だと私は考えます。自分が変わらなければ何も変わらない。
不便になるのは確かに嫌なことですが、それが自分の大切な人を守るためならそんなに嫌なことじゃないと思うのです。
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私自身はそんなに好きというわけではありませんでしたが、小中高と仲が良かった友達が好きだったので、なんとなく聞いていた浜田省吾さん。今改めてこの曲を聴いてみてはじめて曲の歌詞が理解できました。
人を変える一番大きな力は「知ること」です。
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