MENEHUNE BEACH STORE 店主のブログ
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プロフィール
HN:
menehune
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/09/15
職業:
サーフショップやってます
趣味:
ランニング、作文、お絵かき、料理、丸太切り、丸太割り、波乗り
自己紹介:
ショップのオープンは2001年。それ以来、ロングボードをベースに、フィッシュ、ボンザー、シングルフィン、ニーボード、パイポとさまざまな種類のサーフボードを作り、試してきました。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
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気が付けば9月も半分が過ぎました。今日、2013年9月15日は私がこの世の中に生を受けてちょど49回目の9月15日になります。要は今日がお誕生日です。
人の手で作られた機械だったらパーツの交換も無しにとても49年間動き続けることはできません。そう考えると人間が生きているのはすごいことだと思えてしまいます。もっとも人の身体は新陳代謝で骨や内臓、皮膚など、すべては常に新しいものへと作り変えられていますから、歳を取りながらもいつも最新のパーツを使っていると言えるのかもしれません。
考えるととても不思議な気持ちになります。すべての細胞が新しくなるのにどのくらいの期間がかかるのかということまでは分かりませんが、自分では全く何も変わったという意識は無くても身体はいつのまにか入れ替わっているのです。
諸行無常と言いますが、自分の身体でさえ一瞬たりともとどまっておらず常に流れ動いています。般若心経で言う「色即是空」ということにも通じているようにも思えてきます。そこにあるけれども、存在はしていないというのはそういうことなのか。
49回目の夏。8月の始め。私はほぼ身動きが取れなくなってしまいました。窓から見える日除けのニガウリの葉の緑の間から見える空を眺めて数日を過ごしました。
午前4時半から鳴き始めるヒグラシ。5時にはぴたりと鳴き止むのが不思議でした。それから爽やかでまぶしい朝の光。一日の始まり。正午が近づいてくると空気が容赦なく熱を含みはじめます。空のてっぺんから照りつける真っ白な日差し。長くけだるい午後の日差しは黄金色。午睡。太陽が裏山の木々にかかると鳴き始めるヒグラシの声。日没の残照の空。暗くなるまでが一日の暑さを静めるような一番心地よい時間でした。そして夏の短い夜。
2日、3日と満足に動けない時間を過ごしていると、果たしてまた元のように走って、波に乗ることができるように自分の身体が戻るんだろうか?と不安に思うようになってきます。
たかがギックリ腰と言う無かれ。いただいたメールの返事を女房に代筆してもらおうと文面を考えているだけで、腰がピリピリと痛んでくるのです。考えることすら身体に負担になっているのをはっきりと自覚しました。本当に何もできず、食べて飲んでトイレに行くという人間としての最低限の営みだけで必死の思いでした。
はじめのうちはどうしようもない焦燥感と(何に対してか分からない)後悔の念(のようなもの)に捕らわれて、心のなかでは身もだえするように横たわっていましたが、人間というのは状況にだんだんと適応してくるものらしく、最初に感じていた不安な感情はだんだんと薄れてきました。
そして、もし完全に元に戻れなくてもそうなったらそうなったで少し生き方を変えればいいだけだな…という諦念にも似た思いを持って、横たわっている自分の上をただ通り過ぎていくだけの時間を静かな気持ちで眺めることができるようになってきました。
タイトルの夏安居は「げあんご」と読みます。これは夏のあいだ、仏僧が托鉢など俗世を離れ寺などにこもって修行をすることを言います。
夏安居は3ヵ月のあいだ続くそうです。私はたった数日間ですが、身体も気持ちも日常のことすべてから離れて自宅の寝室にじっと横たわり、文字を追い、あとは夏の空を見ていることだけで過ごしました。それだけのことですが、特別な時間でした。
身体を動かすことができないまま、日が沈み暗くなっていく空をここちよく感じながら眺めていたときが私にとっての、夏安居開けの夏解(げあき)だったのか、それとも四つん這い状態からはじめて腰を伸ばして、某レッサーパンダのようにすっくりと立つことができたときが夏解だったのか。
いずれにしても50歳前の1年間を前にして、ほんの少し考えさせてくれた、49回目の夏でした。良い1年にしたいと思います。
人の手で作られた機械だったらパーツの交換も無しにとても49年間動き続けることはできません。そう考えると人間が生きているのはすごいことだと思えてしまいます。もっとも人の身体は新陳代謝で骨や内臓、皮膚など、すべては常に新しいものへと作り変えられていますから、歳を取りながらもいつも最新のパーツを使っていると言えるのかもしれません。
考えるととても不思議な気持ちになります。すべての細胞が新しくなるのにどのくらいの期間がかかるのかということまでは分かりませんが、自分では全く何も変わったという意識は無くても身体はいつのまにか入れ替わっているのです。
諸行無常と言いますが、自分の身体でさえ一瞬たりともとどまっておらず常に流れ動いています。般若心経で言う「色即是空」ということにも通じているようにも思えてきます。そこにあるけれども、存在はしていないというのはそういうことなのか。
49回目の夏。8月の始め。私はほぼ身動きが取れなくなってしまいました。窓から見える日除けのニガウリの葉の緑の間から見える空を眺めて数日を過ごしました。
午前4時半から鳴き始めるヒグラシ。5時にはぴたりと鳴き止むのが不思議でした。それから爽やかでまぶしい朝の光。一日の始まり。正午が近づいてくると空気が容赦なく熱を含みはじめます。空のてっぺんから照りつける真っ白な日差し。長くけだるい午後の日差しは黄金色。午睡。太陽が裏山の木々にかかると鳴き始めるヒグラシの声。日没の残照の空。暗くなるまでが一日の暑さを静めるような一番心地よい時間でした。そして夏の短い夜。
2日、3日と満足に動けない時間を過ごしていると、果たしてまた元のように走って、波に乗ることができるように自分の身体が戻るんだろうか?と不安に思うようになってきます。
たかがギックリ腰と言う無かれ。いただいたメールの返事を女房に代筆してもらおうと文面を考えているだけで、腰がピリピリと痛んでくるのです。考えることすら身体に負担になっているのをはっきりと自覚しました。本当に何もできず、食べて飲んでトイレに行くという人間としての最低限の営みだけで必死の思いでした。
はじめのうちはどうしようもない焦燥感と(何に対してか分からない)後悔の念(のようなもの)に捕らわれて、心のなかでは身もだえするように横たわっていましたが、人間というのは状況にだんだんと適応してくるものらしく、最初に感じていた不安な感情はだんだんと薄れてきました。
そして、もし完全に元に戻れなくてもそうなったらそうなったで少し生き方を変えればいいだけだな…という諦念にも似た思いを持って、横たわっている自分の上をただ通り過ぎていくだけの時間を静かな気持ちで眺めることができるようになってきました。
タイトルの夏安居は「げあんご」と読みます。これは夏のあいだ、仏僧が托鉢など俗世を離れ寺などにこもって修行をすることを言います。
夏安居は3ヵ月のあいだ続くそうです。私はたった数日間ですが、身体も気持ちも日常のことすべてから離れて自宅の寝室にじっと横たわり、文字を追い、あとは夏の空を見ていることだけで過ごしました。それだけのことですが、特別な時間でした。
身体を動かすことができないまま、日が沈み暗くなっていく空をここちよく感じながら眺めていたときが私にとっての、夏安居開けの夏解(げあき)だったのか、それとも四つん這い状態からはじめて腰を伸ばして、某レッサーパンダのようにすっくりと立つことができたときが夏解だったのか。
いずれにしても50歳前の1年間を前にして、ほんの少し考えさせてくれた、49回目の夏でした。良い1年にしたいと思います。
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Re:無題
>こんにちは。お久しぶりです。お身体、回復されたようで、本当に良かったです。脚の大怪我から社会復帰し、周囲の方々に支えられ再びサーフできる喜びを知りました。その只中におります私です。
こんにちは。ありがとうございます。まだ波乗りは無理っぽいですが、普通に生活できるだけでも元気な身体はありがたいものですね。お互い怪我には注意して、波乗り続けていきましょう!
こんにちは。ありがとうございます。まだ波乗りは無理っぽいですが、普通に生活できるだけでも元気な身体はありがたいものですね。お互い怪我には注意して、波乗り続けていきましょう!
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