MENEHUNE BEACH STORE 店主のブログ
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プロフィール
HN:
menehune
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/09/15
職業:
サーフショップやってます
趣味:
ランニング、作文、お絵かき、料理、丸太切り、丸太割り、波乗り
自己紹介:
ショップのオープンは2001年。それ以来、ロングボードをベースに、フィッシュ、ボンザー、シングルフィン、ニーボード、パイポとさまざまな種類のサーフボードを作り、試してきました。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
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西の方は大変なことになっています。海の波も水ですが、水の力というのは恐ろしいもので、橋も道路もクルマも建物も流してしまいます。
1982年、7月下旬のことでした。夏休みの補習授業が終わって、近所に住んでいる友人と帰宅していると急に雨が降り出しました。そのときはまだ普通の雨で、傘を持っていなかった友人とふたりで相合傘をして、男二人で気持ちわりーなーなどとふざけながら帰ったのです。
帰宅して、1時間ほど昼寝をしたと思います。起きてみると状況が一変していました。時間はおそらく夕方の5時過ぎくらいだったと思います。
もの凄い雨なのです。うまく表現ができません。家は高台で眺めはいい場所なのですが、10mも離れていない向かいの家が雨で霞んで、それよりも遠くは雨で全く何も見えません。雨の中で溺れてしまいそうなくらいのもの凄い雨だったと記憶しています。
日本の西の端の街です。7月の夕方の6時でもまだ明るいです。それが真っ暗になって、しかも水の中にいるみたいな圧迫感がある雨でした。
幸い父も母も早い時間にその雨の中をなんとか帰ってきましたが、雨はとにかくもの凄いまま降り続いていました。
いつものように晩ご飯を食べ、さて受験勉強でもしようかと自分の部屋へ入って、何気なくつけたラジオを聴いて始めて起こっていることに気が付きました。
ラジオは市中で川が氾濫し、いたるところで崖がくずれ家が流されているという災害情報を流し続けていました。行方不明、亡くなった方の人数がどんどん増えていくのを、一晩中ただ茫然と聞いていました。
様子を見に行こうなどと思わせるような雨ではありませんでした。そのくらい激しく降り続いていたと思います。
翌日、ようやく雨が止んで、明るくなった家のすぐ下の川沿いのバス道路へ降りていくと、もう何もかもめちゃくちゃでした。毎朝渡っていた橋は無くなって、その先の建物の二階にクルマがぶらさがっています。道路もアスファルトの下の土ごと流されて、大きく四角く陥没しているところもありました。道路って水で流されるんだと、変なところに感心した記憶があります。
水の流れが突き当たるような曲がり角には、クルマが何台も詰まるように積み重なって山になっています。流れてきたいろいろなものと泥、そして折り重なったクルマ。崩れて土がむき出しになった山肌。そんな光景ばかりが記憶に残っています。
市中の商店が集まるような低い地域は大きな被害を受けていました。
長崎大水害と検索してみると、動画や写真が出てきます。とにかくひどいことになっていたのですが、その状態から日が経つのにつれて街が元に戻っていくのは着実に感じていました。私は公共の施設の片づけのボランティアなどをやったと思います。
こんなことを書いて何もならないのは分かってます。でも、こういうことは、いつでもどこでも起こりうることなのだと思います。決して他人事ではありません。
何もできませんが、一日も早く被災地の皆さまの生活が元に戻ることを祈っています。
1982年、7月下旬のことでした。夏休みの補習授業が終わって、近所に住んでいる友人と帰宅していると急に雨が降り出しました。そのときはまだ普通の雨で、傘を持っていなかった友人とふたりで相合傘をして、男二人で気持ちわりーなーなどとふざけながら帰ったのです。
帰宅して、1時間ほど昼寝をしたと思います。起きてみると状況が一変していました。時間はおそらく夕方の5時過ぎくらいだったと思います。
もの凄い雨なのです。うまく表現ができません。家は高台で眺めはいい場所なのですが、10mも離れていない向かいの家が雨で霞んで、それよりも遠くは雨で全く何も見えません。雨の中で溺れてしまいそうなくらいのもの凄い雨だったと記憶しています。
日本の西の端の街です。7月の夕方の6時でもまだ明るいです。それが真っ暗になって、しかも水の中にいるみたいな圧迫感がある雨でした。
幸い父も母も早い時間にその雨の中をなんとか帰ってきましたが、雨はとにかくもの凄いまま降り続いていました。
いつものように晩ご飯を食べ、さて受験勉強でもしようかと自分の部屋へ入って、何気なくつけたラジオを聴いて始めて起こっていることに気が付きました。
ラジオは市中で川が氾濫し、いたるところで崖がくずれ家が流されているという災害情報を流し続けていました。行方不明、亡くなった方の人数がどんどん増えていくのを、一晩中ただ茫然と聞いていました。
様子を見に行こうなどと思わせるような雨ではありませんでした。そのくらい激しく降り続いていたと思います。
翌日、ようやく雨が止んで、明るくなった家のすぐ下の川沿いのバス道路へ降りていくと、もう何もかもめちゃくちゃでした。毎朝渡っていた橋は無くなって、その先の建物の二階にクルマがぶらさがっています。道路もアスファルトの下の土ごと流されて、大きく四角く陥没しているところもありました。道路って水で流されるんだと、変なところに感心した記憶があります。
水の流れが突き当たるような曲がり角には、クルマが何台も詰まるように積み重なって山になっています。流れてきたいろいろなものと泥、そして折り重なったクルマ。崩れて土がむき出しになった山肌。そんな光景ばかりが記憶に残っています。
市中の商店が集まるような低い地域は大きな被害を受けていました。
長崎大水害と検索してみると、動画や写真が出てきます。とにかくひどいことになっていたのですが、その状態から日が経つのにつれて街が元に戻っていくのは着実に感じていました。私は公共の施設の片づけのボランティアなどをやったと思います。
こんなことを書いて何もならないのは分かってます。でも、こういうことは、いつでもどこでも起こりうることなのだと思います。決して他人事ではありません。
何もできませんが、一日も早く被災地の皆さまの生活が元に戻ることを祈っています。
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