還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
掘れ掘れのチューブ、すぐ下はコーラルリーフだと分かる手前のヤバそうな海面。川南活さんが住んでいたグアムの、レッドブイ(文中に登場します)というポイントの波です。
活さんは1969年からグアムへ行き始めました。1969年というと国内ではまだサーフィンをやっている人は限られていた時代ですが、そんな時代にグアムの良い波の情報を得られたのは、国内の米軍基地のサーファーに友人が居たからです。ポール・ウィツィグの69年の「EVOLUTION」をリアルタイムで見ることができたのも、米軍の基地内でした。
そんな関係から、活さんは1969年に初めてグアムへ行ったのですが、その波の素晴らしさにすっかり取りつかれてしまったそうです。結局は移住してしまうのですが、60年代後期から70年代中頃にかけてのグアムのサーフィンは、ハワイのノースショアに負けないくらいの盛り上がりを見せていたそうです。
それでも、グアムがノースショアのようにならなかったのは、これから紹介するグアムのサーフィンの歴史があったからのようです。その中に川南活さんも登場してきます。
グアムペディアというWEBサイトの記事を訳したもので、ちょっと長い文章ですが、偶然に私が所有していた、1967年のサーファーマガジンが多いに関係しており、その雑誌の画像も掲載しましたので、当時のことを想像しながら、ゆっくり読んでみてください。
「Surfing: Early History on Guam」
グアム島の人たちが波乗りを始めたのは、1960年代初頭のことであった。その当時、グアムの浅く危険なサーフスポットの波にチャージしていた先駆者たちには、ハイスクールの技術家庭の教師のジョン・バイランダー、オーストラリアケーブル社のジム・キーナン、地元のビジネスマンの息子のリッチ・バリューと言ったサーファーたちが居た。
実際に、リックズリーフはグアムのサーファーたちに、特に危険なリーフスポットとして知られており、ダンカスビーチのそばのリック・バリューによって名付けられたのである。
グアムの未開発のリーフブレイクは、冒険好きなサーファーたちに新しいサーフスポットの発見という又と無い機会を提供することとなった。そして60年代の中ごろまでには、熱心な若いローカルサーファーたちによる、素晴らしいサーフスポットの発見という収穫がサーフィンにおけるグアムブランドを作り出していた。サーファーとボードをリーシュでつなぐ、1970年代初頭の技術革新によって熟練したスイマーでは無くなったサーファーがラインアップへ出てくるという、ちぐはぐな出来事よりも前の時代である。グアムのパイオニアサーファーたちはチャレンジングコンディションでは散々に泳がされた。切り傷や打撲による痣は言うまでもない。
それらのリーフブレイクとは対照的な、安全で楽しい波のスポットとして、タロフォフォ湾はグアムのサーフィンの歴史の中心的なサーフスポットだった。サンドボトムでフレンドリーな波、タロフォフォ湾はサーフィンの練習やコンテストに最適な場所だった。グアムのサーフィンを語る上で登場する多くのサーファーたちは、当時はまだハイスクールの生徒で、学校にサーフィンのスポーツクラブを作るチャンスに飛びついた。タロフォフォ湾は危険が少ないポイントではあったが、それと同時にしばしば溺れる人が出た。
写真:タロフォフォベイ
60年代の終わりになって、グアムのパワフルな波に良く合ったショートボードは新しい、より高いパーフォーマンスのサーフィンへのアプローチをもたらし、グアムのサーフィンの盛り上がりはかつてないほど高まった。
シークレットスポット
グアムのサーフィンは、アメリカメインラインドの商業主義に対しての単なる反発としてではなく、サーフスポットを公開しない秘密主義の下に、アンダーグラウンドのサーフィンへ向かう動きが著しかった。サーファーたちは、一致団結してグアムのサーフスポットを守った。
ロカールサーファーたちは、世界中のサーファーがグアムの素晴らしいスポットを虎視眈々と狙っていることに眉をひそめた。自然と彼らは波を探し求めるサーファーたちがあらゆるところから、現れてくるのを恐れた。サーフスポットのパイオニアたちは地名ではなく、彼らがどこへ行こうとしているのかを判りにくい名前を使い始めた。「ローザ」はあるメイドにちなんだと言われ、「マガンダス」はタガログ語の「ビューティフル」から来ている。「スリーズ」と「レッドブイ(最初の画像)」などに至っては、彼らがどこで波に乗ったのかも判らなかった。サーファーたちは初めはそれをゲームのように言い出したが、だんだんとシリアスなものになっていった。
写真:グアムの波が紹介sれたSURFERマガジン 1967年
当時の状況に置いて、グアムのサーフィンが記事になったとしても何ら不思議は無い。1967年5月のサーファーマガジンでは複雑な気持ちになった。グアムの波が雑誌に紹介されてしまった一方で、グアムの波は世界最高の波にも匹敵するという生々しい証拠に、そこで波乗りができるという幸運に喜んだ。サーファーマガジンは、グアムでよくサーフィンされている、いくつかのポイントのグラッシーでパーフェクトな最高な波の写真を掲載した。興味深いことに、写真には古くからの(グアムのサーフスポットの)番人のジム・キーナンと一緒に、テリー・ワーナー、トム・チェンバーズ、ニール・ソーヤ、やケニー・ピアらのサーフィンが掲載され、グアムのサーフィンの成長を映し出している。
左ページ上:ボートベイスン、サーファー:トム・チェンバース、左ページ下:スリーズ、サーファー:ニール・ソーヤ、右ページ上:ボートベイスン、サーファー:ケニー・ピア ケニー・ピア氏は昨年、残念ながら亡くなられてしまいましたが、活さんととても仲が良かった方のようです。皆さんご存知の「DA KINE」の創始者でもあります。
しかし同時に、記事は最高機密をも暴露してしまった。(サーファーマガジンの)記事を書いたトム・チェンバーズは、彼のボートベイスンのレフトでのサーフィンと、グアムのサーフィンレベルを引き上げたことへの貢献で記憶されるであろう。しかしながらまた、サーファーたちはこの記事が、この時以来多くのサーファーをラインアップへ引き寄せることとなったことを忘れないだろう。チェンバーズは書いている。
「私はただの50ドルで悪魔に魂を売ってしまったかのように感じられた。新参者たちが良く近寄ってきて、記事を読んでグアムにやってきたと言う。最初はマゼランで、それからサーファーマガジンというわけさ。うーん、まあゴメンよ。」
写真:ポイント「スリーズ」サーファーマガジン1967 パイプラインのライトハンドとキャプションが付いています。サーファー:テリー・ワーナー 活さんはこの写真のある場所を指さして「ここは水深65フィートです。」と…。
シークレットスポットを公表することへのタブーは強くなっていった。サーファーのエンジェ・ダムスは、サーファーたちの間では、波がいかに素晴らしいか、自分のおばあちゃんにさえ手紙を出したり、カリフォルニアのいとこに写真を送ったりしないという決まりになっていたことを覚えている。日本人サーファーの川南活がここの波に出入りし始めたときには、ローカルサーファーたちは他の日本から来るサーファーにここの波のことを言わないように口止めをした。彼はグアムの秘密を、飛行機でたった三時間の距離にいる100万人の人々から守った。
写真:左ページ、スリー サーファー:ジム・キーナン、右ページ上、ボートベイスン、右ページ下、スリーズへ続くジャングル、活さんはこのような場所に暮らしていたこともあるそうです。
1980年代に最初のサーフショップがグアムにオープンすると全てが変わった。それまではサーフボードならず、ワックスさえグアムで手に入れるのは大変だった。
グアムのリーフは危険だという言葉もまた漏れ聞くようになった。グアムのリーフの要求は過酷で、遅かれ早かれ全くその通りになった。肉体的に、またしばしば精神的にも、リーフでのキズ跡を持たないサーファーはほとんどいなかった。リックズとボートベイスンのライト(知る人ぞ知る、パセオ堤防以前のさらに良かった波)は、最も危険なポイントという名誉に輝いた。
1960年代のサーフシーンは、決して険悪なものではなく、サーファーたちも過激では無く、平和に共存し、サーファーとしてのライフスタイルを共有して楽しんでいた。島では、互いに競い合うこともなく友好的であり、共に歩みを進めてきた。
「街のやつら、ローカル、とにかく皆が一緒だったんだ」-- デイムズはこう振り返った。
ハイスクールには男女問わず、サーフィンチームがあった。グアムタイムズが報じた、1966年のタロフォフォ湾でのコンテストのように、サーファーたちはしばしばコンテストを開催した。マカニカイサーフクラブとフーイ オブ ハワイが開催したコンテストのエントリー名簿は、まるで当時のグアムサーフィンの紳士録のようである。当時のトップは、ジョン・ロマナックで、女性はシャロン・クランドール、そして一番年少のサーファーはロビン・エボイとなっている。スティーブ・ヴィラは、ミスター・ワイプアウトの称号を授かった。
練習に最適だった、タロフォフォ湾
タロフォフォ湾はグアムのサーフィンを語る上では、いつでも中心的なスポットである。マッキントッシュは、60年代の他の多くのサーファーたちがそうであるように、安全なタロフォフォ湾で最初の波に乗った。マッキントッシュは言う。ワーナー家の人たちと一緒にそこへ母親が連れて行って、一日中波乗りさせておくんだ。1962年から63年くらいのことで、プライウッドのベリーボードがあればそれで波に乗って、ヒッチハイクもしたし、運が良ければ借りたサーフボードで波乗りすることもできたんだ。
60年代にはたくさんの若い女性サーファーもいた。その理由のひとつとしてはおそらく、それだけサーフィンがグアムで若者たちの間ではポピュラーになっていたからだと、古いローカルサーファーは言う。リン・ビグネットとタニヤ・ジャンプは男のサーファーたちが怖気づく、リックズとボートベイスン(どちらもサーフスポット)で、彼らよりも上手に波に乗った。当時のグアムサーフィンクラブの会長はジョン・バイランダーだったが、彼らはタムニンの今はABC JETクラブになっている、ホンコンガーデンでカーウォッシュダンスをやっていた(いろいろとお楽しみだったというご理解で)。
最も盛大だった初期のサーフィンコンテストは、60年代のジョージ・ワシントンハイスクールとジョン・F・ケネディハイスクールの対戦だった。マッキントッシュはそのときを振り返る。
私はジョン・F・ケネディサーフクラブで、リックズ(サーフポイント)でジョージ・ワシントンを打ち負かした。ジャッジはノーランとテリー・ワーナーだった。波は4―6フィートで、ジョージ・ワシントンのメンバーは沖へ出るのを拒否したんだ。ジョン・F・ケネディサーフクラブのメンバーはリックズの波を乗りこなして、ジョージ・ワシントンを打ち負かしたんだ。
グアムペディアのサイトです。他の画像もあるので見てみてください。
https://www.guampedia.com/surfing-early-history-on-guam/
このグアムペディアを読んでいて思ったのは、70年代のグアムが、ハワイやバリのように世界的に有名なサーフスポットになる可能性が多いにあったということです。そうならなかったのは、グアムローカルと秘密を洩らさなった活さんたちの努力の結果です。
世界トップクラスの波がありながら、メディアから守られ、ハワイやバリのようにメジャーにはならなかったグアムという島。それから、日本のサーフィン界では広く名前を知られた存在でありながら、アンダーグランド的な雰囲気に包まれている川南 活という特別な存在感。果たしてそんな雰囲気を作り出したのはこの島があったからなのか。
昔から感じていたちょっとした謎が解けたような気がしました。(皆が活さんに惹かれる所以は、そんな所にあるんだと思います)
やっぱり、とてつもない存在なのだということも改めて思いました。
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