還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
カングーのときは、リアシートの頭上にあるオーバーヘッドコンソールにストラップを回して取り付けて、運転席の真上にある棚にノーズを引っ掛けて積んでいました。
内張のおかげで、車内の断熱性や遮音性が保たれているので、仕方が無いのですがなんとかしなくてはいけません。どうしようかとネットでいろいろ検索していたら、NV200ワゴンにも取り付けられるという車内キャリアを発見したので、さっそく購入してみました。
荷室のパンチカーペットの上にはラバーシートを敷きました。砂避けと滑り止めです。
ワゴン用はラグジュアリーな(笑)カーペットばかりで実用的なラバーシートでの設定はありません(バン用は荷室の形が違うので使えない)そこで、ラバーシート専門のところから幅1200㎜で、2ミリ厚のクロロプレンラバーのシートを購入しました。
クロロプレンというと、どうしてもウェットの柔らかいラバーを想像してしまいますが、ウェットのラバーとは違い、もっと詰まっていて重さがあって、2ミリ厚で十分な強度があります。表面はエンボス。メッシュスキンというやつです。それを敷いて、シートの脚の部分に穴を開けたりと荷室に合わせてカットしました。
床を敷いたら、キャリアに取り掛かります。右側はリアシートのアシストグリップのボルトと、荷室に空いているメクラ穴(三列シートでは使うらしい)を利用してバーを取り付けました。
反対側に受け金具を取り付け、バーを取り付けてみたらとりあえず形になりました。水平になっていないと落ち着かない私なので(笑)後ほど、水平になるように調整しようと思います。
気になるのは、どのくらいの長さのボードが積めるのか?ということ。試しに載せてみます。
ボードは、8’4”のプリモです。まだまだ余裕があります。真っすぐ積んで、9フィートちょっとはいけそうです。斜めにすれば、9.6もたぶん大丈夫です。
8フィートくらいかと思っていたので、ちょっとビックリです。
これでアタマの上にロングボードも積めることは分かったのですが、課題があります。上の画像でバーを支えている左側の受けです。こちら側は、右側と違って取り付ける穴が無いので、Cピラーのプラスチックカバーの隙間に金具を差し込んで固定しています。
支えているのがプラスチックなので強度があまり強くないのです。耐荷重12㎏なので、このプリモ(約7キロ)は問題ありませんが、ログはちょっときつい。ワゴンならではの制約です。せっかく収納能力があるので、ここをなんとかしたいと思っています。
こちらの車内キャリアは「なみのりこぞう」さんで購入しました。他にも車種別に取り付けられるキャリアがたくさん揃ってます。
とりあえず、いままでの荷物を積み込んでみました。カングーと比べると、かなり余裕があります。床のエンボスシートのおかげで、空のポリタンクはカーブを曲がっても動きません。なかなか良いです。
次は荷室です。後ろのシートの背を前に倒してボードを載せることもあるので、手前側を支えるバーを低い位置に渡そうと思っています。今のところ考えているのは、イレクターパイプを組んで、上のバーと組み合わせてキャリアバーかストラップを取り付けられるように作ってみようと考えています。天井のバーをうまく使えば、かっちり固定できると思います。そんなことを考えるのもまた楽しいもんです。
NV200、最初に考えていた以上にボードをたくさん積めそうです。内張で若干狭くなってはいますが、商用車上がりはやっぱりスゴイです。
乗り始めて10日ほどで、まだ300kmほどしか走っていませんが、NV200馴染んできました。乗っていて思うのは、とても運転しやすいということです。見た目は大きそうですが、小回りが利きます。回転半径は小さくないのですが、なんというのか、細かい動きがやりやすいのです。
例えば、狭い道で対向車がいて、左側の歩道ギリギリに鉄のポールが立っているようなところでタイトに左折しなければいけないときなど、くいっと切れ込んでいってくれて、ひと回り小さい車体のように感じます。カングーはもう手足のようでしたが、それよりも上を行きそうです。
前から見ると、ちょっとカピパラみたいで気に入っております。カングーに替わるクルマなんて無いと思っていましたが、波乗り車のベースには、いいクルマだったみたいです。
さて、明日は波上がりそうですが、オフショアもかなり強そうです。台風も出来たし(クルマの準備も出来たし)、焦らずにやる方が良いかもしれません。(じじいは身体続きませんから)
掘れ掘れのチューブ、すぐ下はコーラルリーフだと分かる手前のヤバそうな海面。川南活さんが住んでいたグアムの、レッドブイ(文中に登場します)というポイントの波です。
活さんは1969年からグアムへ行き始めました。1969年というと国内ではまだサーフィンをやっている人は限られていた時代ですが、そんな時代にグアムの良い波の情報を得られたのは、国内の米軍基地のサーファーに友人が居たからです。ポール・ウィツィグの69年の「EVOLUTION」をリアルタイムで見ることができたのも、米軍の基地内でした。
そんな関係から、活さんは1969年に初めてグアムへ行ったのですが、その波の素晴らしさにすっかり取りつかれてしまったそうです。結局は移住してしまうのですが、60年代後期から70年代中頃にかけてのグアムのサーフィンは、ハワイのノースショアに負けないくらいの盛り上がりを見せていたそうです。
それでも、グアムがノースショアのようにならなかったのは、これから紹介するグアムのサーフィンの歴史があったからのようです。その中に川南活さんも登場してきます。
グアムペディアというWEBサイトの記事を訳したもので、ちょっと長い文章ですが、偶然に私が所有していた、1967年のサーファーマガジンが多いに関係しており、その雑誌の画像も掲載しましたので、当時のことを想像しながら、ゆっくり読んでみてください。
「Surfing: Early History on Guam」
グアム島の人たちが波乗りを始めたのは、1960年代初頭のことであった。その当時、グアムの浅く危険なサーフスポットの波にチャージしていた先駆者たちには、ハイスクールの技術家庭の教師のジョン・バイランダー、オーストラリアケーブル社のジム・キーナン、地元のビジネスマンの息子のリッチ・バリューと言ったサーファーたちが居た。
実際に、リックズリーフはグアムのサーファーたちに、特に危険なリーフスポットとして知られており、ダンカスビーチのそばのリック・バリューによって名付けられたのである。
グアムの未開発のリーフブレイクは、冒険好きなサーファーたちに新しいサーフスポットの発見という又と無い機会を提供することとなった。そして60年代の中ごろまでには、熱心な若いローカルサーファーたちによる、素晴らしいサーフスポットの発見という収穫がサーフィンにおけるグアムブランドを作り出していた。サーファーとボードをリーシュでつなぐ、1970年代初頭の技術革新によって熟練したスイマーでは無くなったサーファーがラインアップへ出てくるという、ちぐはぐな出来事よりも前の時代である。グアムのパイオニアサーファーたちはチャレンジングコンディションでは散々に泳がされた。切り傷や打撲による痣は言うまでもない。
それらのリーフブレイクとは対照的な、安全で楽しい波のスポットとして、タロフォフォ湾はグアムのサーフィンの歴史の中心的なサーフスポットだった。サンドボトムでフレンドリーな波、タロフォフォ湾はサーフィンの練習やコンテストに最適な場所だった。グアムのサーフィンを語る上で登場する多くのサーファーたちは、当時はまだハイスクールの生徒で、学校にサーフィンのスポーツクラブを作るチャンスに飛びついた。タロフォフォ湾は危険が少ないポイントではあったが、それと同時にしばしば溺れる人が出た。
写真:タロフォフォベイ
60年代の終わりになって、グアムのパワフルな波に良く合ったショートボードは新しい、より高いパーフォーマンスのサーフィンへのアプローチをもたらし、グアムのサーフィンの盛り上がりはかつてないほど高まった。
シークレットスポット
グアムのサーフィンは、アメリカメインラインドの商業主義に対しての単なる反発としてではなく、サーフスポットを公開しない秘密主義の下に、アンダーグラウンドのサーフィンへ向かう動きが著しかった。サーファーたちは、一致団結してグアムのサーフスポットを守った。
ロカールサーファーたちは、世界中のサーファーがグアムの素晴らしいスポットを虎視眈々と狙っていることに眉をひそめた。自然と彼らは波を探し求めるサーファーたちがあらゆるところから、現れてくるのを恐れた。サーフスポットのパイオニアたちは地名ではなく、彼らがどこへ行こうとしているのかを判りにくい名前を使い始めた。「ローザ」はあるメイドにちなんだと言われ、「マガンダス」はタガログ語の「ビューティフル」から来ている。「スリーズ」と「レッドブイ(最初の画像)」などに至っては、彼らがどこで波に乗ったのかも判らなかった。サーファーたちは初めはそれをゲームのように言い出したが、だんだんとシリアスなものになっていった。
写真:グアムの波が紹介sれたSURFERマガジン 1967年
当時の状況に置いて、グアムのサーフィンが記事になったとしても何ら不思議は無い。1967年5月のサーファーマガジンでは複雑な気持ちになった。グアムの波が雑誌に紹介されてしまった一方で、グアムの波は世界最高の波にも匹敵するという生々しい証拠に、そこで波乗りができるという幸運に喜んだ。サーファーマガジンは、グアムでよくサーフィンされている、いくつかのポイントのグラッシーでパーフェクトな最高な波の写真を掲載した。興味深いことに、写真には古くからの(グアムのサーフスポットの)番人のジム・キーナンと一緒に、テリー・ワーナー、トム・チェンバーズ、ニール・ソーヤ、やケニー・ピアらのサーフィンが掲載され、グアムのサーフィンの成長を映し出している。
左ページ上:ボートベイスン、サーファー:トム・チェンバース、左ページ下:スリーズ、サーファー:ニール・ソーヤ、右ページ上:ボートベイスン、サーファー:ケニー・ピア ケニー・ピア氏は昨年、残念ながら亡くなられてしまいましたが、活さんととても仲が良かった方のようです。皆さんご存知の「DA KINE」の創始者でもあります。
しかし同時に、記事は最高機密をも暴露してしまった。(サーファーマガジンの)記事を書いたトム・チェンバーズは、彼のボートベイスンのレフトでのサーフィンと、グアムのサーフィンレベルを引き上げたことへの貢献で記憶されるであろう。しかしながらまた、サーファーたちはこの記事が、この時以来多くのサーファーをラインアップへ引き寄せることとなったことを忘れないだろう。チェンバーズは書いている。
「私はただの50ドルで悪魔に魂を売ってしまったかのように感じられた。新参者たちが良く近寄ってきて、記事を読んでグアムにやってきたと言う。最初はマゼランで、それからサーファーマガジンというわけさ。うーん、まあゴメンよ。」
写真:ポイント「スリーズ」サーファーマガジン1967 パイプラインのライトハンドとキャプションが付いています。サーファー:テリー・ワーナー 活さんはこの写真のある場所を指さして「ここは水深65フィートです。」と…。
シークレットスポットを公表することへのタブーは強くなっていった。サーファーのエンジェ・ダムスは、サーファーたちの間では、波がいかに素晴らしいか、自分のおばあちゃんにさえ手紙を出したり、カリフォルニアのいとこに写真を送ったりしないという決まりになっていたことを覚えている。日本人サーファーの川南活がここの波に出入りし始めたときには、ローカルサーファーたちは他の日本から来るサーファーにここの波のことを言わないように口止めをした。彼はグアムの秘密を、飛行機でたった三時間の距離にいる100万人の人々から守った。
写真:左ページ、スリー サーファー:ジム・キーナン、右ページ上、ボートベイスン、右ページ下、スリーズへ続くジャングル、活さんはこのような場所に暮らしていたこともあるそうです。
1980年代に最初のサーフショップがグアムにオープンすると全てが変わった。それまではサーフボードならず、ワックスさえグアムで手に入れるのは大変だった。
グアムのリーフは危険だという言葉もまた漏れ聞くようになった。グアムのリーフの要求は過酷で、遅かれ早かれ全くその通りになった。肉体的に、またしばしば精神的にも、リーフでのキズ跡を持たないサーファーはほとんどいなかった。リックズとボートベイスンのライト(知る人ぞ知る、パセオ堤防以前のさらに良かった波)は、最も危険なポイントという名誉に輝いた。
1960年代のサーフシーンは、決して険悪なものではなく、サーファーたちも過激では無く、平和に共存し、サーファーとしてのライフスタイルを共有して楽しんでいた。島では、互いに競い合うこともなく友好的であり、共に歩みを進めてきた。
「街のやつら、ローカル、とにかく皆が一緒だったんだ」-- デイムズはこう振り返った。
ハイスクールには男女問わず、サーフィンチームがあった。グアムタイムズが報じた、1966年のタロフォフォ湾でのコンテストのように、サーファーたちはしばしばコンテストを開催した。マカニカイサーフクラブとフーイ オブ ハワイが開催したコンテストのエントリー名簿は、まるで当時のグアムサーフィンの紳士録のようである。当時のトップは、ジョン・ロマナックで、女性はシャロン・クランドール、そして一番年少のサーファーはロビン・エボイとなっている。スティーブ・ヴィラは、ミスター・ワイプアウトの称号を授かった。
練習に最適だった、タロフォフォ湾
タロフォフォ湾はグアムのサーフィンを語る上では、いつでも中心的なスポットである。マッキントッシュは、60年代の他の多くのサーファーたちがそうであるように、安全なタロフォフォ湾で最初の波に乗った。マッキントッシュは言う。ワーナー家の人たちと一緒にそこへ母親が連れて行って、一日中波乗りさせておくんだ。1962年から63年くらいのことで、プライウッドのベリーボードがあればそれで波に乗って、ヒッチハイクもしたし、運が良ければ借りたサーフボードで波乗りすることもできたんだ。
60年代にはたくさんの若い女性サーファーもいた。その理由のひとつとしてはおそらく、それだけサーフィンがグアムで若者たちの間ではポピュラーになっていたからだと、古いローカルサーファーは言う。リン・ビグネットとタニヤ・ジャンプは男のサーファーたちが怖気づく、リックズとボートベイスン(どちらもサーフスポット)で、彼らよりも上手に波に乗った。当時のグアムサーフィンクラブの会長はジョン・バイランダーだったが、彼らはタムニンの今はABC JETクラブになっている、ホンコンガーデンでカーウォッシュダンスをやっていた(いろいろとお楽しみだったというご理解で)。
最も盛大だった初期のサーフィンコンテストは、60年代のジョージ・ワシントンハイスクールとジョン・F・ケネディハイスクールの対戦だった。マッキントッシュはそのときを振り返る。
私はジョン・F・ケネディサーフクラブで、リックズ(サーフポイント)でジョージ・ワシントンを打ち負かした。ジャッジはノーランとテリー・ワーナーだった。波は4―6フィートで、ジョージ・ワシントンのメンバーは沖へ出るのを拒否したんだ。ジョン・F・ケネディサーフクラブのメンバーはリックズの波を乗りこなして、ジョージ・ワシントンを打ち負かしたんだ。
グアムペディアのサイトです。他の画像もあるので見てみてください。
https://www.guampedia.com/surfing-early-history-on-guam/
このグアムペディアを読んでいて思ったのは、70年代のグアムが、ハワイやバリのように世界的に有名なサーフスポットになる可能性が多いにあったということです。そうならなかったのは、グアムローカルと秘密を洩らさなった活さんたちの努力の結果です。
世界トップクラスの波がありながら、メディアから守られ、ハワイやバリのようにメジャーにはならなかったグアムという島。それから、日本のサーフィン界では広く名前を知られた存在でありながら、アンダーグランド的な雰囲気に包まれている川南 活という特別な存在感。果たしてそんな雰囲気を作り出したのはこの島があったからなのか。
昔から感じていたちょっとした謎が解けたような気がしました。(皆が活さんに惹かれる所以は、そんな所にあるんだと思います)
やっぱり、とてつもない存在なのだということも改めて思いました。
カツカワミナミサーフボードのオリジナルフィンのフレックスフィンが入荷しました。全体的に細身のアウトラインで、フィンの先端にかけて柔らかくフレックスします。サイズは高さ9インチ、ベースが5 1/2インチほどです。
シングルフィンの、ミニモデル、プリモ、ダイアモンドシングルなど、どれでも使えそうです。フレックスフィンのルースさと、フレックスの戻りに反応したターンの後半の伸びなど、それぞれのモデル用のフィンとはまた違う感覚で楽しめると思います。もちろんハルにもOKです。私はシングルのニーボードか、8.4、9.0のプリモあたりで使ってみたいです。
KK FIN、その他にも品切れしていた、B52の9インチなども入荷しています。
MENEHUNE BEACH STOREウェブサイト ご覧ください。
NV200はルーフキャリアを付けて、ステッカー貼って、波乗り車っぽくなってきました。次は車内キャリアです。バンと違って、内張りされているので吊元が少ないのが悩みの種ですが、その分いろいろと考えるのも楽しかったりします。
構想は着々と出来つつあります。ご紹介していきますので、お楽しみに。
さて今日も身体を動かすべと思って、身体の痛いところを気にしながら動き始めます。いつのまにか雪をかぶった富士山がくっきり見えています。
恐いのでゆっくりと動きますが、なんとなくコレはイケそうな感じです。肩はパドルできそうだし、ふくらはぎも無理しなければ大丈夫みたい。
いいじゃないですか。「車も来たし、これで復活じゃん」と思ったらもう嬉しくてたまらなくなってきて、世の中全てに感謝したいような、飛び跳ねるような気持でした。次の波はもう外しませんよ。
明日はシェイプルームへ行ってきます。
走っているあいだじゅう、この曲がアタマの中を流れていました。NV200に乗っていると、なぜかハワイアンが聴きたくなるのが不思議です。イズラエル・カマカヴィオレ 1995年です。なつかしいい。
STEAMERウェットスーツの3ミリフルスーツが出来上がりました。一昨日から急に寒くなって、まさにジャストインタイムでの到着です。
着るときにあわててしまうと、ヒザで引っかけて破ってしまうこともままある、ヒザから下のパーツをジャージで作りました。これで、波を見ながら焦って着ても大丈夫ですが、あわててひっくり返らないように気を付けてください。
今回から首回りを少し変更しています。首回りがよりフィットしやすいように考えました。一週間ほど、ずーっと考えていました。思いついたのは真夜中です。夜中にふと目が醒めたと思ったら、頭の中に「あ、これじゃん」と首回りの形が浮かびました。
そのまま寝て、さっそく次の日に職人さんに伝えて形にしてもらったら、いい感じに出来上がってきました。STEAMERさんはうちの店だけじゃなくて、他店さまもこれからは同じ形状にするそうですので、私としても嬉しい限りです。
すっかりもうフルスーツのシーズンです。ZERO、AXXE CLASSIC、AIDENTIFY、STEAMER、各メーカーともにオーダー料はいただきません。迷っている方は、寝ているときも考えるウェットマニアに相談してください。採寸は、10~15分ほどで完了いたします。ウェットスーツ、オーダーお待ちしております。
もう、ずっと玄米です。香ばしくて、これを食べつけると白米は物足りなくなります。穀物という感じです。ちゃんと炊けば粘りもあって柔らかで、美味しいのです。
朝飯を済ませ、トイレに行ったらスタートです。まずは、体幹とプッシュアップ。
それからいつもはランニングですが、ふくらはぎにまだ少し気になる感じが残っているので、試すつもりでゆる~く走り出します。林の中をしばらく走っていたら、やっぱりまだ止めといた方が良さそうな感じなので、途中のここでストップ。
多摩ニュータウンを見渡しながら、しっかり腰を落としてスクアット。今朝は特別、空が青い。100回くらいでモモがプルプルしてきますが、気持ちがいい。
そして、やってきた道をゆっくりゆっくり引き返し、今度は近所の競技場にある、ぶらさがりバーを使ってプルアップ。最近、負荷を少し増やしました。
ふくらはぎはもう痛くはありませんが、あと一週間は静かにしておこうと思います。たぶんそれで治りそうです。走れなければ、使う筋肉は衰えます。原因は分かっているとは言え、林の中をのろのろと走りながら、こうやってだんだんと老化していくんだろうなあ…などと考えていました。肩の方はとりあえず動くようになってきたので、もう気にしないことにします。
先週の楽しそうな波を逃したのはちょっと悔しかったですが、次は大丈夫です。あと一週間で大丈夫だと思います。
少し早めに戻って、車をどうするかを考えます。これだけすっぽり、すっきりのスペースですから、アイデア次第でいろいろと使えそうです。まずは採寸ですね。
この車で今日が初出勤でした。途中、細い道を通るので少し心配でしたが、ぜんぜん平気でした。思っていたより小回り効くし、カングーと同じ感覚で使えそうです。違うのは、ホイールベース上の自分の位置です。こっちの方がドライバーが前輪に近いので、意識してこれまでよりも少し前へ出しながらハンドルを切っていくと、きれいに曲がっていってくれるみたいです。
高い運転台がトラックみたいで、何やら楽しくて、このまま町田じゃなくてどこかへ走って行っちゃいたくなりました。
KK FISH 5’8” アップしました。MENEHUNE BEACH STOREウェブサイトご覧ください。
燃費基準達成やら低排出ガス、車庫証明やらのステッカーは剥がしちまおうと思っていたら、営業さんが最初から貼らないように手配してくれていたらしく、後ろ姿すっきりです。営業所のステッカーさえも貼ってくれてません 笑。いろいろ、分かってる営業さんです。
新しい車はニッサンのNV200という商用車のワゴン(乗用車)タイプです。中は出っ張りが少ないすっきりスペースで、これから自分色に作っていくのが楽しみです。
ニッサンのロゴマークカラーも新しいバージョンです。
幅はカングーとほぼ同じ(1.5センチくらい広い)、長さは40センチ長くなってますが、5ナンバーです。運転席はぐっと高くなって、いい見晴らしです。ますますのんびり走っちゃいそうです。
来るのを待つあいだ、ネットのいろいろな口コミを見て若干ドキドキしていたのですが、実際に走らせてみたら、ネガティブな評価の部分は私は全く気になりませんでした。Aピラーが大きくて視界を遮るというのは、もともと首をあっちとこっちに動かしてピラーの向こうを確認しながら曲がっていたので、これまでと変わらないし、リアの板バネサスペンションが跳ねるというのは、(乗用車用に改良されているのかもですが)ガタガタした感じは全くなくて別に普通です。
逆に私は、最初のカングー1.4リッターみたいな硬い感じで好きなくらい。今朝は雨が結構激しく降ってましたが、室内は雨の音ほとんどしませんでした。フロントの見切りも分かりやすいです。いい付き合いができそうです。
まずはルーフキャリアを付けて、それから室内だな。
さて、急に気温が下がってきましたが、プレミアムブラックのインナーが入荷しました。
これ、今までで最強です。とにかく暖かいし、風も水も通さないので、多少古くなったウェットでも暖かさをよみがえらせてくれます。毎年、テストは欠かしておりません。
古くなってくると、生地の合わせ目の接着剤が劣化したり、ラバーの気泡がつぶれて少しずつ水が浸みてくるようになってしまうのは仕方が無いことなのですが、水を通さないこのインナーはそういうジワジワくる浸水をシャットアウトして、身体が冷えるのを防いでくれます。
おまけに伸縮発熱ですから、動いたら動いただけ暖かくなります。これは自分自身で実感している本当のことです。そして海から上がっての着替えです。ウェットを脱いだときの、北風ぴゅーも平気です。寒いことは寒いですが、濡れたところに風を当てられる、あの冷たさはありません。風を通さない0.7ミリラバーのおかげです。
プレミアムブラック ショートジョンインナー、M、L、LLサイズが入荷しております。サイズは体重と胸囲、腹囲優先で選んでください。迷ったらメールでもお問い合わせフォームからでも結構ですのでご相談ください。
MENEHUNE BEACH STOREウェブサイト
KK FISHのストックボードが入荷しました。レングスは 5’8”。ダークウッドにクリアカラー、ブラックロゴをラミネート。光が良くなくて写真がいまいちなので改めて撮り直します。アップロードは、少々お待ちください。店頭ではいつでもご覧いただけます。シンプルで、いい感じです。
さて、もうすっかりウェットスーツの活躍の季節です。明日からは気温もぐっと低くなってきそうです。
昨日はいい波で、羨ましい限りです。五十肩が少し良くなってきたと思ったら、今度は肉離れで、なかなか復帰できない私ですが、ウェットだけは用意しておこうとバックジップのフルスーツを引っ張り出してきたら、ジッパーが背中の真ん中あたりで引っかかってしまっているみたいで、ぜんぜん動かない…。
これ、仕舞う前に潮をしっかりと流しておかなかったせいです。
数年前からジッパーの主流になっているストレッチファスナー。これのおかげで、バックジップの背中が劇的に軽くなりました。人気のU-ZIPのように、U字型にジッパーを配置できるのも、柔軟性があるストレッチファスナーのおかげです。
ストレッチファスナーの特徴は、ジッパーティース、ジッパーの歯ですが、これが細かくなっているのが特徴です。
従来の大きな歯のジッパーでは問題にならなかったのですが、歯が細かいストレッチファスナーでは、歯とスライダーの間に残った海水が乾燥し、塩が結晶してファスナーを固めてしまうことがあります。
そうなるとファスナーが動かなくなります。
無理に動かしてはいけません。ストレッチファスナーは細かくても丈夫ですが、無理に動かすと壊れる可能性もあります。解消法は簡単です。相手は塩ですから、溶かしてやればいいのです。スライダー部分をたっぷりの水で濡らして、しばらく待てば元通りです。簡単ですが、今まで、通常のファスナーでは起こらなかったことなので、あれれ?ということにならないように、覚えておいてください。
ウェットスーツの現在の納期は、AXXE CLASSIC、ZEROともに1か月半程度です。STEAMERは、3~4週間になってきております。
私は早く、ふくらはぎを治さなくちゃ。
エリス・エリクソンのマリブでのクリップ。ボードはスティーブ・リズの古いフィッシュです。短くて、テールまでたっぷり幅が広く、ダブルフォイルの大きなキールフィンが付いている、フィッシュの原型とも言えそうな形です。
とてもフィッシュらしいサーフィンで、その昔フィッシュでのサーフィンを始めて見たころのことを彷彿とさせるマニューバです。
スムースに加速していく感じや、幅広のテールとキールフィンでの曲がり難そうな、クセがある独特のターン。ロングボードかショートボードか、という選択肢しかなかった時代に、とても新鮮に映ったのです。それが、私が今でもダブルフォイルのキールフィンにこだわっている理由のひとつです。
当時はスワローテールのショートボードと混同されることも多かったフィッシュでしたので、いわゆる「フィッシュとは」という、こだわりの定義みたいなものもあったのですが、現在ではそこから派生してきた、いろいろなフィッシュがあります。オリジナルが理解されている現在では、そういう流れもあって良いと思います。
この動画のクラシックなフィッシング(フィッシュで波乗りすることをそう呼んでいました)を見ていたら、いろいろと思い出してしまいました。
2001年の春ごろの写真です。ファッションがまだ90年代引きずってます 笑。まだまだ、フィッシュというものが、なかなか無い時代です。これはハンティントンのゴールドウェストハイスクールのスワップミートかな?そこで見つけた、ヴィンテージのリックのフィッシュ。高くて交渉決裂でしたが。
これの2年後くらいだったと思います(過去に書いたメルマガを読んだら2003年でした)。クリステンソンの6’0のフィッシュを持っていって、マリブで波乗りしたことがあります。当時はまだカリフォルニアでもフィッシュは珍しくて、しばしば声をかけられました。
ピークと思われるところはドロップインが激しくて無理なので、インサイドのセクションになるところで待って、沖から乗った人が抜けられず、落ちるか捕まるかした波に乗っていましたが、途中から乗ってもいい波で、始めたばかりの下手くそフィッシュでも楽しめた記憶があります。
その翌年に作ってもらったのが、この5’10。JRラミネート。これはクリスの家の前ですね。
シングルフォイルの方がマニューバしやすいと分かっていても、私はずっとダブルフォイルなのはやっぱりあの動きにくそうな独特の動きが好きだからなのです。(シングルフォイルはオーダーで作ります)
走る前にふくらはぎもちゃんと伸ばしたし、筋膜リリースのローラーもコロコロやってるんですけど…。身体自体が老朽化しているんでしょうね。古くなるのは仕方ないですが、ここ最近、いろいろと痛くて、ちょっとめげてます。
五十肩は少し良くなって、パドルにマキシマムパワー(笑)は出せないにしても、ボード(8.4プリモ、もしくは8.0フィシュね)に助けを借りれば出来そうだと考えてましたが、明後日までに治るかな?これ。肩がダメなら、サーフマットでもなどと考えていましたが、これじゃキックも無理。なんか、もうよれよれですよ。
食事も含めて、いろいろと気を遣っているんですが、もう一度まき直しです。これから二週間、身体とココロの新規まき直しに集中しようと思います。
がんばりますので見ていてください。
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