還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
少し冷たく感じる乾いたオフショアと、日差しにまだ暑さが残る秋晴れの日。海水にはまだぬくもりが残っているはずです。海の上は気持ちいいに違いありません。天気は最高ですが波はいまいちっぽいので、後ろ髪を引かれることもなく、青空と海を楽しみながらリペア工場とシェイプルームへ行ってきました。
用事を済ませ帰宅して(シェイプルームの模様はまた後ほどお知らせいたします)、落ち着かない気持ちでコーヒーを飲み、急いで取り掛かるのはクルマの内装の続きです。
設計図を書いて、イレクターパイプをカットするサイズを計算するところまで終わっていたので、早速それに従ってパイプをカットしていきますが、暗くなるのがすっかり早くなって、一時間もしないうちに辺りは真っ暗。ヘッドラップの明かりで、切り終えたらあとは家の中でジョイントを使って組み立て作業。
集中してやっていたら写真を撮るのを忘れてました。
そして今朝です。こんな感じに組み上がりました。
ここまで省略していますが、家から出そうと思ってよく考えたら、一番大きいところのサイズが約1200x1200あるものが、900モジュールの家の廊下を通るはずありません。仕方がないので、窓から庭へ出して玄関へと運んだのが上の画像です。
窓から出しながら不安になっていましたが、その不安のとおり、クルマにも入りません(笑)
それでも開口が広いおかげで、バーを一本外してなんとか中に入れることができました。
こういう現場感覚、すっかり無くなってます。
そして組み上げたのがこれです。後部座席の上に取り付けたバーの耐荷重が心配だったので、運転席側のバーはそのまま残し、後ろはイレクターパイプを組んで支えてやろうという作戦です。
置いただけでは不安定なので、固定しなくちゃいけません。
右側は取り付けたバーに、イレクターのジョイントを使って固定します。これだけでも結構かっちり止まります。
左側にはパイプは無いので、最初に使っていたパイプの付け元を利用します。このステー金具の先に水道管を固定するブラケットを取り付けて固定してやろうと思います。
荷物を固定するフックを掛けるリングが、床のちょうどいい位置に出ているので、念を入れてそれも使ってやろうと考えているところです。
1200幅のイレクターをメタルジョイントで固定したバーの耐荷重は30㎏あるそうなので、これで心配せずに積み込めます。オンフィンのログはさすがにフィンがつかえて無理でしたので、それは助手席を倒して積むことにいたします。
後部座席は写真のように後ろへリクライニングしても、前へ全部倒してもボードが積みこめます。荷室のバーの左右どちらか半分くらいに板を載せて棚にしたら便利かな?
とりあえずはこれで、ほぼ完成。いろいろ悩みましたが、考えた通りに出来上がりました。
海に行くのが楽しみです。
MOONFISH 6'0 ストックボードが入荷しました。詳しくはまた後ほど。
デイブ・パーメンターのウィドウ・メーカーのユーズドボードが入荷しました、というか戻ってきました。返品じゃありませんが(笑)、台風の波でたっぷり楽しんだそうです。
体重が軽い方で、始めからちょっとボリュームが多いかなと言いつつ、ウィドウ・メーカーにどうしても乗ってみたいと持っていかれましたが、やっぱりちょっと大きかったみたいです。それでも、ウィドウ・メーカー初体験はなかなかのものだったみたいです。
それからクリステンソンのボンザー、CB5をお値下げしましたのでよろしくお願いします。
ウィドウ・メーカーはMENEHUNE BEACH STOREウェブサイトご覧ください。
明日は定休日です。シェイプルームへ行ってきます。
体幹(腹筋各種)とプッシュアップを各40回x3セットやってから走ります。久しぶりだったので今日はキロでしたが、いつもは8キロ。そして、プルアップを10回x3セット。
やっているのはこんな感じです(これだけです、とも言える)。時間にして1時間半くらい。これだけですが、これだけやっとけば海の中での調子をキープできます。たいした運動量ではありません。大事なのは量ではなく、続けることです。そう実感しています。
肩は相変わらず痛いです。パドルを普通にやるのはたぶんまだ無理です。これが治まるまではニーボードの出番になりそうですが、ふと思いついたのはログでニーパドルならできそうだということ。
ニーパドルの動きなら、狭い可動領域でも大丈夫そうです。肩以外は調子いいんですから。明後日、昼前の干潮の時間にできるかな?
持ち運びは少々手間がかかるログですが、さらっとクルアに積み込むことが出来ると、フットワークも軽くなります。NV200はベースが仕事車ですから、トランスポーターにはばっちりです。以前のように途中で動かなくなる心配も無くなりました(普通、あんまり無いですが…)。
このNV200、オートマティックミッションにCVTという変速機構が使われています。ギヤが無くて、動力を伝達するプーリーの大きさが変わることで動力の伝達比を変えるしくみになっています。
いままでのギア変速のミッションとは、反応が全く違い、なんだか新しいサーフボードに乗ったときのような、たとえば初めてフィッシュやハルに乗ったときのように、その反応の違いを確かめているところです。
普通の車は、アクセルを踏むとスピードが出ます。当たり前です。でもこのCVTは、アクセルを踏むと(踏み方次第で)スピードが落ちるときがあるし、逆にアクセルを踏みこまないでも加速できたりします。
走り出すときは、ゆっくりアクセルを踏み込みます。当然ですが走り出します。違うのはそこからです。一定の回転数(スピード)へ達したら、アクセルはもうそれ以上踏み込まないでその回転数(アクセルの踏み加減)をキープしておけば、そのまま加速していきます。目的のスピードに達したら、アクセルを少し戻してスピードをキープすれば巡行してくれます。
アクセルは、「走れ」と指示をするボタンみたいな感じです。ボタンは強く押しても意味はありません。ただ押せばいいだけです。ボタンが押され、エンジンが回って、ある一定の回転数にもっていけば、ミッションが仕事をして、アクセルはそのままで加速していってくれる感じです。
アクセルを急に踏み込むと、エンジンの回転数が上がるだけですぐには前へ進まない。これに最初は戸惑いました。左折しようとして、ブレーキを踏んで安全を確認して走り出そうとアクセルをグイと踏んだら、グオーンとエンジンが回るだけで走り出すスピードはゆっくり。
そこから思い出したように(アクセルの開度は変わらないのに)、回転数が下がって走り出します。戸惑うでしょ?これ。
どちらも、CVTの特性のようです。急なアクセル操作はダメなのです。低い回転数でも、それをキープしておけば加速します。もっとスピードを付けたいときは、ゆっくりさらに踏んでいくとスムースに加速していってくれます。踏み幅を急に大きくすると(加速中のはずなのに)、ミッションは何をすれば良いのか迷ってしまうという、ちょっと変わった感性のミッションのようです。
最初はそういう性格が良く分からず、ガソリンを無駄に使ってしまっていたようで、最初に給油したときは、10.5キロ/リッターでしたが、ミッションの性格が分かってきた2度目の給油では、12.5キロ/リッターになっていました。だいぶ慣れてきたので、次はもうちょい伸ばせるんじゃないかと思っています。今までと違ってハイオクじゃなく、レギュラーガソリンで良い所も嬉しい所。
ゆっくり過ぎると、他のクルマがイライラしてしまいますから普通に(いい燃費で)走ることができるように、攻略してやりたいと思っております。
乗り始めて、二週間ちょっと。走行距離は550kmちょっと。とりあえず思うのは、腰痛にはいいドライビングポジションのようです。今のところ腰痛くなりません。もっと乗り込んでいきましょう。
次はイレクターが組めたらご紹介します。重たいログも天井に載せられるようにと考えました。大丈夫なはず…です。
もしかすると、もうこのフィンシステムのことを知らない人もいるかもしれません。LOKBOX、ロックボックスと言います。
21世紀のはじめの頃、フィッシュの大きなブームがありました。その当時、ツインのキールフィンやクアッドのフィッシュに良く使われていた、脱着式のフィンシステムがこのロックボックスです。
ついでに言うと、今では特に珍しくないクアッドフィンもその頃に普及してきました。はじめは80年代のグレン・ウィントンですが、そっちへ話がいくとクアッドフィンへ脱線していまうので、それはまた後ほどということにして、今日はロックボックスのほうです。
以前、と言っても、もう15年前に書いたブログがネットの検索で引っ掛かるからなのか、たまにお問い合わせをいただきます。このリペアもそれがきっかけで持ち込まれました。
ありがたいことなのですが、少々これが問題でもあります。
ロックボックスはすでに生産されておらず、パーツが手に入らないのです。私のところも、最近までロックボックス用のクアッドフィン(初期のマンダラのレアなやつ)や、フィンを固定するプレートやネジなどが残っていたのですが、それも今は全て無くなってしまいました。
パーツがあれば、交換すれば済むことですが、それが無い…。可能性としては、このプラグがどこまでダメージを受けているかということです。ふちの部分にヒビのようなものが見えていますが、フィンの受けの部分は平気そうです。そこにヒビが入ってしまうと致命的ですが、それも無さそうなので、きれいに外せば使えるかもしれません。まずは、それに掛けてみるしかありません。
ボードは懐かしいロゴが入った、C-BUCKETです。調子良さそうです。
これを作っていた当時、クリスは良く日本に来てシェイプしていました。このC-BUCKETもジャパンシェイプです。当時、このくらいのレングスでクアッドを良く作っていました。
年代を考えるとかなりしっかりしていて、最近のものと言ってもいいくらいのコンディションです。カッティングのラインなどを見ていても、やっぱり日本のラミネート技術は素晴らしい。
今度は、リペアマンの腕の見せ所です。
波乗りも久しぶりなんですが、こいつで波乗りに来たのも初めてです。嬉しいので、ついついパチリと。光の具合がカタログっぽくなってます。
カングーのときは積む順番や、場所を考えて積み込んでいましたが、こいつはそれはありません。あまり考えずに助手席を倒して8.4のプリモ、後席を倒してニーボードを二本突っ込んで、横のバーにウェットを引っかけて…で問題なしです。この後、リペアボードを二本とニューボードを一本積み込む予定がありますが、それを考えても問題なさそうで使い勝手は上々です。
ボードは迷わず、ボリュームがある5’7”をチョイス。
ボリュームがある方のニーボードを選んだのは、これから潮位は上がってくる一方で、波は厚くなってくることと(こっちがボリューム)、肩が痛い(こちらがニーボード)のがそれぞれの理由です。
海へ向かう途中でも肩がうずいていたので、果たしてこれでパドルできるのかいな?とウェットに着替え、砂浜をフィンを履いた足でペタペタと歩き、ショアブレイクを乗り越えてパドルを始めた瞬間、やっぱりイテテテです 笑。というかあまりの痛さに笑うしかなかったのです。
それでもなんとか沖のラインアップへたどり着き、ちょうど目の前に波が来たと思った次の瞬間には、いつのまにか波を滑っていて、先ほどパドルアウトしたインサイドの地点まできっちりとメイクしてました。
で、戻るのはやっぱりイテテテ 笑、ですが普通に波には乗れたので半分は嬉しい笑いに変わってます。
そうやっているうちに、腕を先の方まで伸ばさなければ、痛くないことに気が付きました。右手は普通にパドルして、左手は耳の横あたりから入水させてプッシュでパドルしていれば痛みはありません。若干、リズムがおかしくはなってきますが、スタッカートだと思えば楽しいリズです。
波は厚めでボードのチョイスはばっちりです。しかし活さんのシェイプ、よく走ります。テイクオフして波の先が崩れてくるセクションを、その下の平らな水面まで降りているのに、スムースに弧を描きながら先まで抜けていってくれます。
肩が痛いくせに波、たくさん乗っちゃいました。楽しくてたまりません。キックのパワーのおかげでもあります。たぶん、まだ8’4”は無理だと思います。
前回波乗りしたのは、7月です。クルマが壊れて、緊急事態宣言、五十肩(たぶんSIRVA)、肉離れ、再び五十肩ですが、身体は(左肩以外)調子良く動いてくれてます。肩は痛くてもパドルの力は衰えていません。プルアップのおかげです。今のメニュー、間違えていないと思います。
肩の痛みは、たぶん「SIRVA」という症状だと思います。SIRVA(Shoulder Injury Related Vaccine Administration) 「ワクチン投与に関連した肩の傷害」という意味です。良く言われる摂取後の副反応では無くて、副反応が治まってしばらくして痛み出します。コロナワクチンの方がが治まったと思ったら、インフルワクチンでも同様に出てしまいました。コロナ同様、時間とともに治まるはずです。
カテーテルを使った外科治療があるみたいですが、今のところまだ保険適用外で費用的にちょっと無理そうなので、治まるまで待とうと思います。
慌てることはありません。ニーボードにサーフマット、パイポと楽しめる道具はいくらでもありますから。
気分はなんだかもう最高なのは、いい天気とNV200のおかげです。
運転席が高いので、海沿いを走っているとこれまでフェンスが邪魔していたのが、その上からきれいに海が見えます。いい天気で、皆が波に乗って楽しんでいる海を見ながらこんなのを流していると、もうとろけそうになってきます 笑。
波乗りはやっぱり最高ですね。
昨日の富士山は不思議でした。見守ってくれているというか、拝みたくなるような神々しさを感じました。まさに霊峰富士です。
すっかりいい気持ちでリペアボードをピックアップし、シェイプルームへ。Iさんのロングフィッシュです。来週はシェイプ完了の画像をお送りできると思います。
シェイプできるものから作っておりますが、ブランクス不足はまだ続いています。ダークウッドストリンガーがなかなか入荷して来ず、お待たせしてしまっている皆さまには、申し訳なく思っております。コロナの影響がこんなところに出てくるとは予想もしておりませんでした、早く元に戻って欲しいです。
まずは、KK FISH 5’8”。クロスを追加したところが濃くなって、ちょっとニーボードみたいですが、KK FISHです。グッドコンディションです。
これは、HULL 7’5”です。ボトムはゆるいコンベックスボトムで、フィン周りはVEEになっています。薄いテールがハルの雰囲気をかもしています。レールにはボリュームが残してあるので、レールコントロールはやりやすいハルです。
するりと滑りそうです。
それから、7’7”のクアッド。モデルにはなっていませんが、結構作っていました。セブンセブンと呼んで、私も乗ってました。
セブンセブンは使うブランクスも7’7”です。ブランクスのロッカーやボリュームバランスが良いので、そのまま端から端までフルレングスで使っているからセブンセブン。
動きは良いし、スピードも出るしの調子いいミッドレングスです。
最後はMINI2。ミニミニです。サイズは、6’3”。
皆さんが大好きなプリモは、このミニミニのボトムから始まってます。ですので、よーく滑ってくれます。テールはエッジが効いているので、シングルぽくない反応をしてくれます。ラウンドノーズのシングルフィン、面白いですよ。
ユーズドボードは、MENEHUNE BEACH STOREウェブサイトをご覧ください。
AXXE CLASSIC ウェットスーツ、年内にお手元に欲しい方は、11月1日(月)までにオーダーお願いします。12月25日までに出来上がります。(状況によっては変わることもありますので、あらかじめご了承お願いします)
年明けになっても、本当に必要な時期にには間に合います(湘南です)が、年末年始は新しいウェットで波乗りしたいという人は、オーダーお待ちいたしております。採寸・オーダー料は無料です。
プレミアムブラック、暖かいです。
AXXE CLASSICウェットスーツ
さて、先日もブログで書きましたが、首回りをリニューアルしたSTEAMERウェットスーツ。ユーザーさんから、「首回りのフィット感最高で、水も入ってきません!」と嬉しいフィードバックをいただきました。
首の後ろのパーツの形状を少し変えてもらったのですが、予想以上に良い感触のようです。
こうなるとウェットマニアの血が騒ぎます 笑。早速、自分でも試してみようと3ミリフルスーツをオーダーしちゃいました。
私がオーダーしたのは、3ミリで裏起毛無しの裏ジャージ。つまりセミドライじゃなくて、3フルというやつです。これで、プレミアムブラックのショートジョンのインナーを着て、真冬に波乗りしてみようと企んでいます。
背中のジッパーまわりだけは、セミドライと同じ作りのダブルフラップの防水仕様にしてもらいます。これが結構、防水性が高いのは体験済ですが、まずは実験くんです。
STEAMERウェットスーツは北茨城で女性の職人が縫っている、海街のウェット屋さんみたいな存在です。有名メーカー、有名ブランドと同じように、というのはなかなか難しいところです。
私はこれまでずっと、有名メーカーの作り込まれたウェットスーツを着てきました。その中で分かってきたのは、ポイントを押さえれば、冬の寒さは防ぐことができるということです。
さすがに、AXXE CLASSICやZEROみたいにはいきません。でも、そういう有名ブランドは、価格が上がり過ぎてちょっと…という人もいると思います。ですので、コストをできるだけかけない方法として、まずは自分で実験してみることにしました。
裏地が起毛でも、そうでなくても、暖かさをさらにワンランク上げるポイントは、浸入してきた海水を、肌に直接触れさせないことです。これ大事です。
ですので、ある程度まで防水性を高めた3ミリのバックジップのフルスーツ(今回のSTEAMER 3フル)のインナーとして、海水を通さない機能を持ったインナーを着ていれば海水の冷たさからは身体は守れるはずです。
ポイントは二段構えというところです。ウェットの内部で、浸水してきた冷たい海水を直接肌に触れさせない役割を担うのが、プレミアムブラックのショートジョンインナーです。
インナーの効果も実証したかったので、ウェットスーツの裏起毛はあえて外したというわけですが、これまでの経験から考えても、おそらくこれで大丈夫だと思います。
冬の楽しみというか、実験くんはもうメネフネビーチストアの風物詩ですね 笑。
STEAMERウェットスーツは、3週間ほどで出来上がってます。こちらもよろしくお願いします。
STEAMERウェットスーツ
カングーのときは、リアシートの頭上にあるオーバーヘッドコンソールにストラップを回して取り付けて、運転席の真上にある棚にノーズを引っ掛けて積んでいました。
内張のおかげで、車内の断熱性や遮音性が保たれているので、仕方が無いのですがなんとかしなくてはいけません。どうしようかとネットでいろいろ検索していたら、NV200ワゴンにも取り付けられるという車内キャリアを発見したので、さっそく購入してみました。
荷室のパンチカーペットの上にはラバーシートを敷きました。砂避けと滑り止めです。
ワゴン用はラグジュアリーな(笑)カーペットばかりで実用的なラバーシートでの設定はありません(バン用は荷室の形が違うので使えない)そこで、ラバーシート専門のところから幅1200㎜で、2ミリ厚のクロロプレンラバーのシートを購入しました。
クロロプレンというと、どうしてもウェットの柔らかいラバーを想像してしまいますが、ウェットのラバーとは違い、もっと詰まっていて重さがあって、2ミリ厚で十分な強度があります。表面はエンボス。メッシュスキンというやつです。それを敷いて、シートの脚の部分に穴を開けたりと荷室に合わせてカットしました。
床を敷いたら、キャリアに取り掛かります。右側はリアシートのアシストグリップのボルトと、荷室に空いているメクラ穴(三列シートでは使うらしい)を利用してバーを取り付けました。
反対側に受け金具を取り付け、バーを取り付けてみたらとりあえず形になりました。水平になっていないと落ち着かない私なので(笑)後ほど、水平になるように調整しようと思います。
気になるのは、どのくらいの長さのボードが積めるのか?ということ。試しに載せてみます。
ボードは、8’4”のプリモです。まだまだ余裕があります。真っすぐ積んで、9フィートちょっとはいけそうです。斜めにすれば、9.6もたぶん大丈夫です。
8フィートくらいかと思っていたので、ちょっとビックリです。
これでアタマの上にロングボードも積めることは分かったのですが、課題があります。上の画像でバーを支えている左側の受けです。こちら側は、右側と違って取り付ける穴が無いので、Cピラーのプラスチックカバーの隙間に金具を差し込んで固定しています。
支えているのがプラスチックなので強度があまり強くないのです。耐荷重12㎏なので、このプリモ(約7キロ)は問題ありませんが、ログはちょっときつい。ワゴンならではの制約です。せっかく収納能力があるので、ここをなんとかしたいと思っています。
こちらの車内キャリアは「なみのりこぞう」さんで購入しました。他にも車種別に取り付けられるキャリアがたくさん揃ってます。
とりあえず、いままでの荷物を積み込んでみました。カングーと比べると、かなり余裕があります。床のエンボスシートのおかげで、空のポリタンクはカーブを曲がっても動きません。なかなか良いです。
次は荷室です。後ろのシートの背を前に倒してボードを載せることもあるので、手前側を支えるバーを低い位置に渡そうと思っています。今のところ考えているのは、イレクターパイプを組んで、上のバーと組み合わせてキャリアバーかストラップを取り付けられるように作ってみようと考えています。天井のバーをうまく使えば、かっちり固定できると思います。そんなことを考えるのもまた楽しいもんです。
NV200、最初に考えていた以上にボードをたくさん積めそうです。内張で若干狭くなってはいますが、商用車上がりはやっぱりスゴイです。
乗り始めて10日ほどで、まだ300kmほどしか走っていませんが、NV200馴染んできました。乗っていて思うのは、とても運転しやすいということです。見た目は大きそうですが、小回りが利きます。回転半径は小さくないのですが、なんというのか、細かい動きがやりやすいのです。
例えば、狭い道で対向車がいて、左側の歩道ギリギリに鉄のポールが立っているようなところでタイトに左折しなければいけないときなど、くいっと切れ込んでいってくれて、ひと回り小さい車体のように感じます。カングーはもう手足のようでしたが、それよりも上を行きそうです。
前から見ると、ちょっとカピパラみたいで気に入っております。カングーに替わるクルマなんて無いと思っていましたが、波乗り車のベースには、いいクルマだったみたいです。
さて、明日は波上がりそうですが、オフショアもかなり強そうです。台風も出来たし(クルマの準備も出来たし)、焦らずにやる方が良いかもしれません。(じじいは身体続きませんから)
掘れ掘れのチューブ、すぐ下はコーラルリーフだと分かる手前のヤバそうな海面。川南活さんが住んでいたグアムの、レッドブイ(文中に登場します)というポイントの波です。
活さんは1969年からグアムへ行き始めました。1969年というと国内ではまだサーフィンをやっている人は限られていた時代ですが、そんな時代にグアムの良い波の情報を得られたのは、国内の米軍基地のサーファーに友人が居たからです。ポール・ウィツィグの69年の「EVOLUTION」をリアルタイムで見ることができたのも、米軍の基地内でした。
そんな関係から、活さんは1969年に初めてグアムへ行ったのですが、その波の素晴らしさにすっかり取りつかれてしまったそうです。結局は移住してしまうのですが、60年代後期から70年代中頃にかけてのグアムのサーフィンは、ハワイのノースショアに負けないくらいの盛り上がりを見せていたそうです。
それでも、グアムがノースショアのようにならなかったのは、これから紹介するグアムのサーフィンの歴史があったからのようです。その中に川南活さんも登場してきます。
グアムペディアというWEBサイトの記事を訳したもので、ちょっと長い文章ですが、偶然に私が所有していた、1967年のサーファーマガジンが多いに関係しており、その雑誌の画像も掲載しましたので、当時のことを想像しながら、ゆっくり読んでみてください。
「Surfing: Early History on Guam」
グアム島の人たちが波乗りを始めたのは、1960年代初頭のことであった。その当時、グアムの浅く危険なサーフスポットの波にチャージしていた先駆者たちには、ハイスクールの技術家庭の教師のジョン・バイランダー、オーストラリアケーブル社のジム・キーナン、地元のビジネスマンの息子のリッチ・バリューと言ったサーファーたちが居た。
実際に、リックズリーフはグアムのサーファーたちに、特に危険なリーフスポットとして知られており、ダンカスビーチのそばのリック・バリューによって名付けられたのである。
グアムの未開発のリーフブレイクは、冒険好きなサーファーたちに新しいサーフスポットの発見という又と無い機会を提供することとなった。そして60年代の中ごろまでには、熱心な若いローカルサーファーたちによる、素晴らしいサーフスポットの発見という収穫がサーフィンにおけるグアムブランドを作り出していた。サーファーとボードをリーシュでつなぐ、1970年代初頭の技術革新によって熟練したスイマーでは無くなったサーファーがラインアップへ出てくるという、ちぐはぐな出来事よりも前の時代である。グアムのパイオニアサーファーたちはチャレンジングコンディションでは散々に泳がされた。切り傷や打撲による痣は言うまでもない。
それらのリーフブレイクとは対照的な、安全で楽しい波のスポットとして、タロフォフォ湾はグアムのサーフィンの歴史の中心的なサーフスポットだった。サンドボトムでフレンドリーな波、タロフォフォ湾はサーフィンの練習やコンテストに最適な場所だった。グアムのサーフィンを語る上で登場する多くのサーファーたちは、当時はまだハイスクールの生徒で、学校にサーフィンのスポーツクラブを作るチャンスに飛びついた。タロフォフォ湾は危険が少ないポイントではあったが、それと同時にしばしば溺れる人が出た。
写真:タロフォフォベイ
60年代の終わりになって、グアムのパワフルな波に良く合ったショートボードは新しい、より高いパーフォーマンスのサーフィンへのアプローチをもたらし、グアムのサーフィンの盛り上がりはかつてないほど高まった。
シークレットスポット
グアムのサーフィンは、アメリカメインラインドの商業主義に対しての単なる反発としてではなく、サーフスポットを公開しない秘密主義の下に、アンダーグラウンドのサーフィンへ向かう動きが著しかった。サーファーたちは、一致団結してグアムのサーフスポットを守った。
ロカールサーファーたちは、世界中のサーファーがグアムの素晴らしいスポットを虎視眈々と狙っていることに眉をひそめた。自然と彼らは波を探し求めるサーファーたちがあらゆるところから、現れてくるのを恐れた。サーフスポットのパイオニアたちは地名ではなく、彼らがどこへ行こうとしているのかを判りにくい名前を使い始めた。「ローザ」はあるメイドにちなんだと言われ、「マガンダス」はタガログ語の「ビューティフル」から来ている。「スリーズ」と「レッドブイ(最初の画像)」などに至っては、彼らがどこで波に乗ったのかも判らなかった。サーファーたちは初めはそれをゲームのように言い出したが、だんだんとシリアスなものになっていった。
写真:グアムの波が紹介sれたSURFERマガジン 1967年
当時の状況に置いて、グアムのサーフィンが記事になったとしても何ら不思議は無い。1967年5月のサーファーマガジンでは複雑な気持ちになった。グアムの波が雑誌に紹介されてしまった一方で、グアムの波は世界最高の波にも匹敵するという生々しい証拠に、そこで波乗りができるという幸運に喜んだ。サーファーマガジンは、グアムでよくサーフィンされている、いくつかのポイントのグラッシーでパーフェクトな最高な波の写真を掲載した。興味深いことに、写真には古くからの(グアムのサーフスポットの)番人のジム・キーナンと一緒に、テリー・ワーナー、トム・チェンバーズ、ニール・ソーヤ、やケニー・ピアらのサーフィンが掲載され、グアムのサーフィンの成長を映し出している。
左ページ上:ボートベイスン、サーファー:トム・チェンバース、左ページ下:スリーズ、サーファー:ニール・ソーヤ、右ページ上:ボートベイスン、サーファー:ケニー・ピア ケニー・ピア氏は昨年、残念ながら亡くなられてしまいましたが、活さんととても仲が良かった方のようです。皆さんご存知の「DA KINE」の創始者でもあります。
しかし同時に、記事は最高機密をも暴露してしまった。(サーファーマガジンの)記事を書いたトム・チェンバーズは、彼のボートベイスンのレフトでのサーフィンと、グアムのサーフィンレベルを引き上げたことへの貢献で記憶されるであろう。しかしながらまた、サーファーたちはこの記事が、この時以来多くのサーファーをラインアップへ引き寄せることとなったことを忘れないだろう。チェンバーズは書いている。
「私はただの50ドルで悪魔に魂を売ってしまったかのように感じられた。新参者たちが良く近寄ってきて、記事を読んでグアムにやってきたと言う。最初はマゼランで、それからサーファーマガジンというわけさ。うーん、まあゴメンよ。」
写真:ポイント「スリーズ」サーファーマガジン1967 パイプラインのライトハンドとキャプションが付いています。サーファー:テリー・ワーナー 活さんはこの写真のある場所を指さして「ここは水深65フィートです。」と…。
シークレットスポットを公表することへのタブーは強くなっていった。サーファーのエンジェ・ダムスは、サーファーたちの間では、波がいかに素晴らしいか、自分のおばあちゃんにさえ手紙を出したり、カリフォルニアのいとこに写真を送ったりしないという決まりになっていたことを覚えている。日本人サーファーの川南活がここの波に出入りし始めたときには、ローカルサーファーたちは他の日本から来るサーファーにここの波のことを言わないように口止めをした。彼はグアムの秘密を、飛行機でたった三時間の距離にいる100万人の人々から守った。
写真:左ページ、スリー サーファー:ジム・キーナン、右ページ上、ボートベイスン、右ページ下、スリーズへ続くジャングル、活さんはこのような場所に暮らしていたこともあるそうです。
1980年代に最初のサーフショップがグアムにオープンすると全てが変わった。それまではサーフボードならず、ワックスさえグアムで手に入れるのは大変だった。
グアムのリーフは危険だという言葉もまた漏れ聞くようになった。グアムのリーフの要求は過酷で、遅かれ早かれ全くその通りになった。肉体的に、またしばしば精神的にも、リーフでのキズ跡を持たないサーファーはほとんどいなかった。リックズとボートベイスンのライト(知る人ぞ知る、パセオ堤防以前のさらに良かった波)は、最も危険なポイントという名誉に輝いた。
1960年代のサーフシーンは、決して険悪なものではなく、サーファーたちも過激では無く、平和に共存し、サーファーとしてのライフスタイルを共有して楽しんでいた。島では、互いに競い合うこともなく友好的であり、共に歩みを進めてきた。
「街のやつら、ローカル、とにかく皆が一緒だったんだ」-- デイムズはこう振り返った。
ハイスクールには男女問わず、サーフィンチームがあった。グアムタイムズが報じた、1966年のタロフォフォ湾でのコンテストのように、サーファーたちはしばしばコンテストを開催した。マカニカイサーフクラブとフーイ オブ ハワイが開催したコンテストのエントリー名簿は、まるで当時のグアムサーフィンの紳士録のようである。当時のトップは、ジョン・ロマナックで、女性はシャロン・クランドール、そして一番年少のサーファーはロビン・エボイとなっている。スティーブ・ヴィラは、ミスター・ワイプアウトの称号を授かった。
練習に最適だった、タロフォフォ湾
タロフォフォ湾はグアムのサーフィンを語る上では、いつでも中心的なスポットである。マッキントッシュは、60年代の他の多くのサーファーたちがそうであるように、安全なタロフォフォ湾で最初の波に乗った。マッキントッシュは言う。ワーナー家の人たちと一緒にそこへ母親が連れて行って、一日中波乗りさせておくんだ。1962年から63年くらいのことで、プライウッドのベリーボードがあればそれで波に乗って、ヒッチハイクもしたし、運が良ければ借りたサーフボードで波乗りすることもできたんだ。
60年代にはたくさんの若い女性サーファーもいた。その理由のひとつとしてはおそらく、それだけサーフィンがグアムで若者たちの間ではポピュラーになっていたからだと、古いローカルサーファーは言う。リン・ビグネットとタニヤ・ジャンプは男のサーファーたちが怖気づく、リックズとボートベイスン(どちらもサーフスポット)で、彼らよりも上手に波に乗った。当時のグアムサーフィンクラブの会長はジョン・バイランダーだったが、彼らはタムニンの今はABC JETクラブになっている、ホンコンガーデンでカーウォッシュダンスをやっていた(いろいろとお楽しみだったというご理解で)。
最も盛大だった初期のサーフィンコンテストは、60年代のジョージ・ワシントンハイスクールとジョン・F・ケネディハイスクールの対戦だった。マッキントッシュはそのときを振り返る。
私はジョン・F・ケネディサーフクラブで、リックズ(サーフポイント)でジョージ・ワシントンを打ち負かした。ジャッジはノーランとテリー・ワーナーだった。波は4―6フィートで、ジョージ・ワシントンのメンバーは沖へ出るのを拒否したんだ。ジョン・F・ケネディサーフクラブのメンバーはリックズの波を乗りこなして、ジョージ・ワシントンを打ち負かしたんだ。
グアムペディアのサイトです。他の画像もあるので見てみてください。
https://www.guampedia.com/surfing-early-history-on-guam/
このグアムペディアを読んでいて思ったのは、70年代のグアムが、ハワイやバリのように世界的に有名なサーフスポットになる可能性が多いにあったということです。そうならなかったのは、グアムローカルと秘密を洩らさなった活さんたちの努力の結果です。
世界トップクラスの波がありながら、メディアから守られ、ハワイやバリのようにメジャーにはならなかったグアムという島。それから、日本のサーフィン界では広く名前を知られた存在でありながら、アンダーグランド的な雰囲気に包まれている川南 活という特別な存在感。果たしてそんな雰囲気を作り出したのはこの島があったからなのか。
昔から感じていたちょっとした謎が解けたような気がしました。(皆が活さんに惹かれる所以は、そんな所にあるんだと思います)
やっぱり、とてつもない存在なのだということも改めて思いました。
カツカワミナミサーフボードのオリジナルフィンのフレックスフィンが入荷しました。全体的に細身のアウトラインで、フィンの先端にかけて柔らかくフレックスします。サイズは高さ9インチ、ベースが5 1/2インチほどです。
シングルフィンの、ミニモデル、プリモ、ダイアモンドシングルなど、どれでも使えそうです。フレックスフィンのルースさと、フレックスの戻りに反応したターンの後半の伸びなど、それぞれのモデル用のフィンとはまた違う感覚で楽しめると思います。もちろんハルにもOKです。私はシングルのニーボードか、8.4、9.0のプリモあたりで使ってみたいです。
KK FIN、その他にも品切れしていた、B52の9インチなども入荷しています。
MENEHUNE BEACH STOREウェブサイト ご覧ください。
NV200はルーフキャリアを付けて、ステッカー貼って、波乗り車っぽくなってきました。次は車内キャリアです。バンと違って、内張りされているので吊元が少ないのが悩みの種ですが、その分いろいろと考えるのも楽しかったりします。
構想は着々と出来つつあります。ご紹介していきますので、お楽しみに。

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