MENEHUNE BEACH STORE 店主のブログ
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プロフィール
HN:
menehune
年齢:
59
性別:
男性
誕生日:
1964/09/15
職業:
サーフショップやってます
趣味:
ランニング、作文、お絵かき、料理、丸太切り、丸太割り、波乗り
自己紹介:
2001年のオープン以来、ロングボードをベースに、フィッシュ、ボンザー、シングルフィン、ニーボード、パイポとさまざまな種類のサーフボードを作り、試してきました。
 気が付けば還暦が近づいてきていますが、浮力を頼りにしながら、カラダもキープして、人生の荒波にチャージしていきたいと思っています。
 2006年に始めたこのブログ、サーフィンの他にランニングなどのフィットネスや食べ物、フツーの普段の生活のことなども綴っていきたいと思います。
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久しぶりに読んでみようと思い、ダニエル・デュエインのCAUGHT INSIDEを引っ張り出してみました。1998年の作品です。

この作品を読むのは、これでもう何度目でしょうか。1998年、バーンズ&ノーブルやボーダーズといったリアル書店がおしゃれで元気だった時代です。

ずいぶん昔の本ですが、それぞれの年齢で感じることが違うせいか、いつ読んでも面白い。

読書を重ねてきたおかげかなのか、今回は特に何か感じるものがあります。

当時は半年に一度にもらえるまとまった休みでハワイやカリフォルニアへ出かけていましたが、その数年後にまさか自分がサーフショップを始めるなんて考えてもいませんでしたから、人の人生なんてどうなるか分からないものです。

この本の主人公もそうです。波乗りを生活の中心に置いた暮らしをするために、都会での会社勤めからドロップアウトして北カリフォルニアの海辺の家に暮らし始めます。

有名なサーファーになったわけでも無く、読む限りではどれほど(波乗りが)上達したのかも疑問に思えたりもするのですが、そもそもそういう話でもありません。

作者は私たちと同じ波乗りが好きな普通の人です。サーファーとして海辺に住み、その目を通して感じたことや、海や植物、生物など北カリフォルニアの自然をつづっている物語です。

自然描写は「沈黙の春」で知られるレイチェル・カーソン のセンス・オブ・ワンダーを思い起こさせるリリカルな文章です。

そしてサーフィンの精神世界は、超自然学者のライアル・ワトソンのように神秘的に静かに(つまり眉唾的に)語られています。(それが波乗りじゃないかと)

そもそもサーフィンをという行為をサーフィンしない人に説明するのはかなり厄介なことですが、それをうまく表現するとすればこんな風になるのではないかと思います。

サーフィンを長く続けている人が読めばあたりまえの内容だと思います。でも改めてどうして?と聞かれるとうまく言えない。

波乗りって、そんなもんだと思います。この本を読むとなんとなく何かが分かるように感じると思います。でも実際にはそんな気がするだけで本当のところは分からない。

だからずっと続けていられるんでしょうね。

CAUGHT INSIDE、文学的にも素晴らしい作品です。翻訳者の東理夫さんは私たちの年代にはお馴染みですが、この方のおかげでもあると思います。

読んだことない人はぜひ。
おとといからブログの管理ページがダウンしていて(ブログは見られたと思います)、更新もコメントへの返事もできずすいませんでした。

明日は波上がりそうなので、シングルフィン持って行ってみようと思います。プリモの6’9”です。

ついにワックス塗ります。

このブルーのプリモは、前に乗っていたこれと同じです。結局、これが良かったのでまた戻ってきました。

サイズは同じで、ボトムとレールのシェイプも同じトライプレーンコンボと呼んでいる活さんオリジナルのボトムですが、同じでも違うのがハンドシェイプ。「どちらも良い」ということしか分からないと思いますが良いのです(笑)

それからやっぱりシングルフィンをもう一本。5フィートアンダーです。

ブルーのボードより40年も昔に活さんがシェイプしたニーボードです。VEEノーズから深いコンケーブとレールエッジ。カツカワミナミサーフボード、歴史あります。

あとは波次第。安心の8.4のプリモも忘れずに持って行きます。



話は変わって、最近読んだ本の話。読書きらいですか?笑。

文学作品をほんとうに読むべきは、私らおっさんだと私は思います。私なんぞが言うのも何ですが、人生の機微を感じ取れる大人になるには、文学作品を読むべきだと思います。

といつつ、最近はこんなのを読んでみました。


実は仏教の思想を少しくらいは理解しとこうと思って、いろいろと読んでましたが、親鸞の言葉を集めた「歎異抄」を読んでいたら、俗世間がすっかり懐かしくなってしまって、子供の頃を思い出しながら選んだのがこれら。

「ジェーン・エア」は小6のときに学校の図書室にあったのを読みました。ハーレクインみたいなところは別として、エアさんユニークで面白い人だと思います。「嵐が丘」も同じ作者だと思っていましたが、同じブロンテでも姉妹だそうで、知りませんでした。

「つぶやき岩の秘密」は、NHKの少年ドラマシリーズでやっていたのを見た記憶がほんの少しだけ(1973年です)原作が、新田次郎だとは知りませんでした。

主題歌は印象的でしっかり覚えています。三浦のロケ地は今もあるそうです。


放映時間はウィークデイの午後6時。夕方。遊んでいた友達はそろそろ家に帰る時間だったり、勉強していたり、テレビ見たり、プラモデル作ったり、ギターの練習したり、夕食前の時間、子供にとっては意外と充足の時間だったのかもしれませんね。

話は子供向けで単純ですが、懐かしさたっぷりです。

そして「岸辺のアルバム」は子供の頃に見た大人の話(1977年のテレビドラマです)不倫、受験、中絶、親子の断絶、盛りだくさんの家族のお話しです。72年の多摩川水害の実際の映像で始まるオープニングが強烈で、思春期真っ最中のお年頃(中一)だった私は、ジャニス・イアンのこの曲を聞くと今でもなにやらムズムズします 笑。


原作脚本はさすがの山田太一。最初は昼メロだあと思いましたが、面白かったです。

さて、明日は寝坊しないようにしないと。
久しぶりに本のお話しでもと思い、太宰治です。

太宰治というと、「人間失格」や「斜陽」、「走れメロス」なんかを思い浮かべると思います。何度か読んでいます(他の作品もちゃんと読んでます)が、正直に申しますと私はどれも苦手です。青年期、流行り風邪みたいにはまっちゃう人がいるらしい太宰治作品ですが、若いときにも、そして歳を取って改めて読んでも、やっぱり苦手。

でも、この作品を読んで多いに見方が変りました。「お伽草紙」という作品です。


この本には、井原西鶴や聊斎志異を基にした短編が収められていますが、お伽草紙はいわゆる日本昔話です。瘤取り(こぶとり)、浦島さん、カチカチ山、舌切り雀の四編がお伽草紙という題名で収められています。

昔話でよくあるパターンは、正直じいさん(または、ばあさん)と意地悪か欲深じいさん(ばあさん)が登場して、正直なほうが得をして、もう一方は損をするか散々な目に合ってしまうというパターンです。

この作品でも基本的な話の流れは元の話と同じですが、違う点は社会的、家庭的により現実的に書かれている点です。子供がこれを読んでも話の面白さは分からないと思います。これを面白いと思うのは、ある程度歳を重ねて、日常生活での心情の微妙な動きを共感できる大人だと思います。

たとえば「瘤取り」。コブとりじいさんのお話し(話は皆さんご存知と思いますが、若干ネタバレあるかもです)

気の良いじいさんは、お酒が大好きです。楽しく暮らしているように見えますが孤独です。真面目で働き者の息子と昔美人だったらしいおばあさんと暮らしていますが、お酒を飲むのはひとり。ひとり気持ち良くなっても、息子とおばあさんは真面目過ぎてあまり話し相手になってくれません。

おじいさんの楽しみは、天気が良い日に腰に酒が入った瓢箪をぶらさげてたきぎを集めに行くこと。たきぎを集めてしまうと、眺めが良い場所に座り瓢箪の酒をちびりちびりと、頬のコブを触りながら独り飲ることです。

頬のコブにさえ、息子とおばあさんはあまり関心を払ってくれないのです。

そしてあるとき、山で雨宿りしているうちに酔っぱらって寝てしまいます。夜中に目を覚ましたおじいさんは、楽しそうな雰囲気につい引き込まれて鬼の宴会の輪の中で踊り出してしまいます。酔っ払いは酔っ払いの雰囲気が大好きなのです。

鬼に踊りがウケたおじいさんは、明日も来るようにと頬のコブを質に取られてしまいます。

酒飲みの悲しさ、酔いが醒めて我に返ると一晩空けてしまった家へ慌てて帰りますが、息子もおばあさんも仕事に忙しく、昨夜の出来事を話す雰囲気ではありません。頬のコブが無くなったことにさえ、たいした問題にはなりませんでした。

お隣にもコブのあるじいさんが住んでいます。このじいさんは堂々とした体格で顔立ちも立派、思慮分別もあって、財産もあり近所の人たちからも一目置かれている存在ですが、数少ない悩みのひとつは頬のコブ。

このじいさんのおかみさんと娘は陽気で仲が良く、いつも笑っているような母娘です。おじいさんのコブをからかっては喜んでいるような外から見れば明るい家庭のお隣さんなのです。

そんなイケメンのじいさんは、隣の酒飲みじいさんのコブが無くなった話を聞いて、よし自分も取ってもらおうと勇み立ちます。

そうして山へと出かけて行きますが、結果は皆さんが知っているお話しの通り、コブが二つになって戻ってきます。

結局この二人、どちらも悪いところは無い二人のおじいさんの何が違ったのか?何が良くて何が悪かったのか?ということになって結末を迎えるのですが、その疑問に対して、人間生活では良く起こることに過ぎないという意味の答えが用意されています。

浦島さんでは、口が悪くてシニカルなべらんめえ調の亀の背中に乗って竜宮城へ行きます。最後には玉手箱を開けてしまいますが、歳を取ることは救いでもあるというお話になっていきます。

カチカチ山は、純粋な乙女(兎)におっさん(狸)が惚れたという設定で、純粋さゆえに残酷に物語が進んでいきます。一方的な恋愛は、理屈抜きで惚れてしまったゆえの勘違いと間抜けさ、そしてもう一方は無関心と嫌悪という残酷な関係で進むストーリーに、兎のおばあさんのための復讐が加わる凄まじいお話しです。

舌切り雀は、おばあさんに舌を抜かれた雀を、おじいさんがハードボイルド調にクールにそしてワイルドに探し回ります。雀のお宿の場面では、ハンフリー・ボガードみたいに「優しい言葉だけは、ごめんだ。」とじいさんは苦笑して立ち上がるのです。


誰でも知っている昔話をベースにしていますが、性格や宿命、愛憎など、人間のどうにもしがたい本質的な部分を取り上げて書かれたお話しは、読む人それぞれに違ったかたちで響いてくる「おとぎばなし」です。

簡単に読めるのですが、それぞれの登場人物の心情を考えながら読むのが面白くて何回も読んじゃいました。

太宰治「お伽草紙」ぜひ読んでみてください。


さて、明日は波良さそうと思っていたら、予報が変ってオンショアになりました。オンショアでやるか、薪割りするか、どうしようか。





最近読んだ二冊の本。

ひとつは最近何かと話題にのぼることが多い元東京都知事が著した「太陽の季節」、もうひとつは大正、昭和の小説家で太宰治の師匠ということでも知られる井伏鱒二の「駅前旅館」

「太陽の季節」はいわゆる「時代に逆らう」若者の無軌道な暴力や性を描いた、(出版当時に)新しいというよりはどちらかというと異質な感が強い挑戦的な作品であり、もう一方の「駅前旅館」は、前述の「無軌道な若者」とは正反対で、酸いも甘いもかみ分けた旅館の番頭さんたちが繰り広げる、ちょっと可笑しく哀しい人間模様を描いた小説です。

何気なく読んだ二冊の本ですが、読み終わって面白いことに気が付きました。

それはこの二冊が出版された年代と、そのときの著者の年齢です。「太陽の季節」は昭和30年(1955)で著者の石原慎太郎氏はかぞえで23歳、そして「駅前旅館」は昭和32年(1957)、井伏鱒二氏は59歳。36年ほども歳のはなれた二人の作家が、ほぼ同時代に書いた小説です。

二作品とも出版の翌年に映画化もされているところも共通しています。どちらも当時ウケた物語だったということだと思います。

そして、これら二作品の出版から約60年後の2017年に、今年で53歳になる私が読んだわけです。無軌道な若者も、旅館の番頭さんも、どちらもすでに60年も昔のことです 笑。

読んで面白かったのは「駅前旅館」でした。「太陽の季節」は正直なところ、途中で読むのが面倒くさくなりながら最後まで読みました。

番頭さんたちは、会話にも行動にも含みがあって面白く、想像が膨らみますが、若者の方は会話や行動が、衝動的でストレートすぎて面白みがありません。過激だけど退屈なんです。

逆の見方をすれば、それだけはっきりと印象が分かれるのは、どちらも優れた作品だからだと思います。そして、読む年齢が違っていれば感じ方も変わっていたでしょう。

10~20代の頃に読んでいれば、「太陽の季節」の方への共感が強かったはずです。おそらく「駅前旅館」の面白さは分からなかったのではないかと思います。

これもひとつのジェネレーションギャップというやつだと思いますが、自分自身の中でギャップが生まれているのが何やら面白いところです。

もちろん「駅前旅館」も文中には、当時の着物や街中の風俗など自分が知らない時代のものもたくさん出てきます。それでも登場してくる人たちの気持ちの動きや情景を思い浮かべながら面白く読むことができるのは、この本を書いたときの作者の年代の方が、今の自分の年齢に近いからじゃないかと思います。

「太陽の季節」を読んでいると、そういえば、若い頃は自分の行動にいちいち理屈をつけていたこともあったと思い出しました。若いということはいろいろ面倒くさいことだなあと改めて気が付きました。

そんなことを感じるのは、そうやって少しずつ年齢を重ねている証拠です。自分が生まれる前のカルチャーに対しても、ジェネレーションギャップ的なものを感じるのはいつの時代でもそれぞれの世代に普遍的な変わらないものが存在しているからだと思います。

いつの時代も若いこと、歳を取るということは同じこと。同じ道をたどってくるものなのでしょうね。


AXXE CLASSICに引き続き、AIDENTIFYのカタログも出来上がりました。今週末に到着予定です。



今日は本のお話し。たまにですが、そういうカテゴリーもあるのです(左下カテゴリー欄をご参照)いま読んでいるのはこの2冊。2~3冊を同時に読むというのは、普通にやっています。


一冊は「一外交官のみた明治維新 上下」。幕末から明治維新にかけての歴史小説にたびたび登場してくる、イギリス外交官のアーネスト・サトウの日本滞在中の回想録です。日本の言葉と文化を良く理解している彼が書く当時の日本のようすは、リアリティがあって物語としてもとても面白い一冊です。幕末史が好きな人はぜひ読んでみてください。

今日書きたいのはもう一冊のほう。ドイツのエーリヒ・ケストナーという児童文学者が書いた「点子ちゃんとアントン」という題名の子供向けの小説。

文章は分かりやすく子供向けに書かれているのですが、大人も素直な気持ちになって読んでみてほしい内容です。

舞台は第二次大戦前のベルリン。裕福な家の娘の点子ちゃんと貧しいけれど懸命に生きている男の子、アントンとの友情のお話し。ちょっとした事件を通して子供たちが大人を変えていく、というようなお話です。

全部で16の章で構成されていて、それぞれの章が終わったあとに「たちどまって考えたこと」として、その章の反省のようなものが書かれています。

そのうちのある一節。アントンは点子ちゃんにイジワルをする門番の男の子を、パンチ二発でやっつけてしまいます。ケストナーはその章の終わりの「たちどまって考えたこと」にこう書いています。

アントンは自分よりも身体が大きな男の子にパンチを二発くらわした。勇気のあるところを見せた、と考える人もいるかもしれない。でもこれは勇気ではない。蛮勇だ。このふたつはひと文字ちがうだけでなく、別の物だ。

勇気は冷静であってこそ持てる。無鉄砲でもなく、頭に血がのぼっていてもだめだ。勇気はげんこつだけでは証明されない。


もうひとつ、最終章で物語の最後に「ハッピーエンドについて」としてこう書いています。ちょっと長いですが、文意でまとめてみます。

この本の登場人物がみんな、それぞれにあっている場所に落ち着いたということで、じっさいの人生でも同じように、ものごとはこうあるべきだというふうに運び、こうあるべきだというふうに終わると思ったかもしれない。

でもいまはそうはなっていない。正しいことが正しく評価されないことだってあるのだ。だからみんなが大きくなったとき、世界がましになっているようにがんばってほしい。ぼくたちは充分にうまくいかなかった。

みんなは、ぼくたちおとなのほとんどよりも、きちんとした人になってほしい。正直な人になってほしい。わけへだてのない人になってほしい。かしこい人になってほしい。

この地上はかつては天国だったこともあるそうだ。なんでもできないことはないんだ。この地上はもう一度、天国になれるはずだ。できないことなんて、ないんだ。



どちらもただの訓話のように聞こえますが、本が書かれた時代を考えてみると、もっと重大なことを言おうとしていることが見えてきます。

この小説が出版されたのは、1931年です。その前の年の選挙では、ナチ党がたくさんの議員を議会に送りこんで第二党の位置を獲得しています。

ベルリンに住むこの子供たちとその親たちは、その後どうなってしまったのか?点子ちゃんとアントンがもしユダヤ人だったら…と歴史の歩みを考えると、そういう時代を作り出してしまった自分たち大人を痛烈に批判しているようにも聞こえてきます。

訳者のあとがきには、ケストナーは地味で時間がかかる方法ではあるが、やがて大人になる子供たちに、正しい判断で正しい世の中を作ることできる、そんな大人になって欲しいとの思いをこの物語で伝えたかったのではないか、と書かれています。


子供のために書かれた、子供のための小説ですが、大人も一緒に読んで、一緒に考えることで素晴らしい未来が訪れることをケストナーは期待したのではないかと思います。

二度映画化もされているようなので、そちらも見てみたいです。







今日は本のお話し。波乗りは全くでてきませんので、興味ない方は閉じるボタンをぽちっとするか、左の検索窓で気になるキーワードを入れて過去記事でも読んでください。

こんな本を読みました。坪内祐三の「靖国」です。


靖国というと、A級戦犯合祀の問題や毎年夏になるとニュースに登場する政治家の参拝など、ちょっと引いてしまう人もいると思います。でもこの本は、そういうイデオロギー的な話ではありません。

明治初頭に大村益次郎が靖国神社の前進である、招魂社を作ってから明治、大正、昭和初期、戦中、戦後から現代へと、靖国神社に対して国民が持っていたイメージと周囲の環境の変遷などを、当時の文献や靖国が登場する文学作品などを通して分析した本です。

そもそも靖国神社は、明治維新で「官軍として」戦って命を落とした人を祀る目的で作られました。その後は、西南の役や日清・日露戦争ということになる訳ですが、その時代の靖国はどちらかというと、市民の娯楽や憩いの場という雰囲気が強かったのです。

神社の境内で競馬やサーカスが行われたり(昔、国語の教科書で読んだ安岡章太郎の「サーカスの馬」は靖国神社の境内での出来事を描いたものです)観行場という見世物小屋や商店が集まった、今でいえばデパートやショッピングモールに遊園地を足したような施設があって、九段坂界隈は一日遊べる場所だったのです。

靖国に遊就館という建物がありますが、最初に建てられた建物をデザインしたのはイタリア人の建築家で、レンガ作りの洋館でした。ハイカラです。

また、そんな「靖国という場」を舞台にした小説、二葉亭四迷らの作品の描写を通し、その時代の靖国に漂う空気感を探ったりもしています。

戦後にやはり神社の境内で行われた奉納プロレスや、占領下で考えられた靖国の娯楽場化計画などを通して、最後にはディズニーランドを持ち出してきて締めくくっています。

靖国というと厳粛で古式蒼然とした日本精神のようなものを想像してしまいますが、今とは違った場であった時代も長くあったということです。

けれども、将来の日本を思って亡くなったたくさんの人が祀られている場であるのは事実だと思います。少々斜めから見て、書かれているようにも思えてしまう内容ですが、軍国主義に利用されていたことに対する痛烈な批判と皮肉であるとも読み取れます。

作者は明治時代の研究で著名な方であるので、靖国神社を通してみた明治、大正、昭和の東京の雰囲気を著した書物と考えた方がいいのかもしれません。昔の東京に興味がある方は読んでみてください。

私はこの本を読んでいて、明治から昭和初期にかけての洋画や浮世絵を見に行きたくなりました。


さて、前線が抜けるので明日はすこーしだけ期待していたのですが、それほど影響は無さそう…明日もどうやら厳しそうな気配です。

明日もランニングと体幹です。

減量作戦は継続中。スタートして約7週間が経過しましたが、現在体重はマイナス4㎏、ウェスト82センチ→77センチ。

バードウェルのショーツ、30インチ(28サイズ)が普通に履けるようになりました(以前は32インチ)。ウェスト82センチ時代に作ったウェットは、腹回りが緩くなりました。使用には問題ありませんが…。

もう、このくらいでいいかな~。そろそろ糖質ゼロじゃないビール飲みたいです。





太宰治。中学生のときは、いまひとつ分からず、20代になってもういちど読んでみたら、今度は全く受け付けることができず、嫌いな作家でした。

50を過ぎて、どれ、もう一度試してみようかと手にとってみたら、以前の嫌な感じは薄れて(残ってますが)結構面白い。

「人間失格」、「斜陽」と読んでみて、最初から時代を追って読んで見ることにしました。

26歳で第一回芥川賞を次席で逃した「逆行」が入っている最初の短編集がこの「晩年」。処女短編集の題名が「晩年」というくらいですから、ふざけたものです。最初から希望も何もあったものじゃありません。


麻薬中毒、自殺未遂を繰り返しながら(私がいつも遊ばせてもらっている七里が浜でも未遂)滅びの中に自らの文学を昇華させていった移り変わりが作品から読み取れるでしょうか。純粋で豊かな感性を持っている若者は、歳を重ねて、ある種の免疫ができるまで読まない方がいいかもしれません。

さて、活さんのシェイプの本格始動は来週からのようで、定休日はひさしぶりにゆっくりできました。

午前中は、10キロちょっとのゆっくりランニング。ふくらはぎのヒラメはすっかり復活したようで、年明けからベアフット再開しています。ムリしないように取り混ぜていくことにします。

走ったあとは体幹をしっかりとやります。これらをやっておけば海から少しのあいだ遠ざかってもすぐに復活できます。

しかし、年末からタイミングが合わない…。

それで昼飯は歳越しそばの残りで年明けそばと洒落込んでみました。とりせいろです。


夜は恒例、七草粥。今年は玄米粥にしてみました。カレイの煮付けと佃煮がおかずです。


サーフショップより食べ物屋の方が向いてたりして…笑。

ああ、腹が減った(現在、午後6時半)

それではまた明日。




昨日のブログは一言抜けていました。ボンザーのニーボードは「動きはトライフィンのニーボードよりも鈍くなるかもしれませんが、大事なところはそこじゃない」と言いたかったのですが、肝心な書き忘れていた部分を付け加えました。

さて、今こんな本を読んでいます。著者はアイビーボーイのイラストで有名な穂積和夫さんのお姉さまです。

関東大震災から太平洋戦争に入る前までの時代、昭和初期の東京下町の暮らしをつづったお話です。震災、戦争、前後のことを考えると大変な時代ではあるのですが、この当時の人々の暮らしぶりは今よりも経済的、物質的なものを超えて人間的な豊かさを感じます。

人の暮らしの基本は、衣食住です。それに仕事、遊び、趣味などが加わって生活に彩りが生まれてきます。

使うものは今よりも人の手によって作られたことが強く感じられたと思います。プラスチック製品はありません。食品には化学添加物は使われていません。流通手段は未発達で冷蔵輸送なんかありませんから、ほぼ地産地消です。

着るものは古くなれば仕立て直して再利用する知恵があったと思います。建物の建材も同様です。鉄道はありますが、人の移動の基本は自分の足です。

人の力で制御できる範囲の文明の中で、今よりもずっと地に足が着いた生活をしていたように思えてなりません。今様に言うならエコな暮らしかもです。

インターネットは便利ですが、人の処理能力を超えた情報をもたらします。情報の内容は玉石混交。選んでいると寝る時間がどんどん無くなります。

移動も便利で速い。でも、もうこれ以上は必要無いと思います。地下のトンネルを時速500キロで走る超伝導リニアは想像しただけでぞっとします。

食べ物は添加物だらけ。

今の世、便利でモノはあふれていますが豊かさは感じません。無いものねだりで良くみえてしまうのかもしれません。どの時代もそこで生きていくのが大変なのは同じですが…やっぱり古き良き時代だったと思います。

それだけに、その後の戦争のことを考えると複雑なものがあります。





桜もすっかり咲いて、ちょっと雨が降ってしまいましたが今日は皆さんお花見ですか?冬型の波のシーズンはもう終わりのよう。今年は関東では春一番はありませんでした。波のサイズ的に見たら今年は外れだったかなあ…。

今は、南の海上からうねりを送り込んでくれる台風のシーズンへ移り変わる季節。身体のコンディションを整え、道具の準備をしてうねりを待ちましょう。

夏場はオンショアになることも多いので、浮力が多めで小回りが効くMINIみたいなボードが1本あると、風が入った小波コンディションでも楽しめます。

波を待ちつつ最近はこんなのを読んでおります。

「ますむらひろし」さんという懐かしい名前を見つけて思わず買ってきた三冊です。中学生のころに、この方が描いているアタゴオル物語という漫画が好きでいつも読んでいました。


この三冊は宮沢賢治の童話を漫画にしたものです。漫画を読んで、もとのお話を読んで、また漫画を読んでもう一回もとの話を…と結局2回ずつくらい読んでしまいました。

改めて読み返すと、漫画読んだおかげか(笑)これまでとはまた違った感銘を受けました。

風の又三郎を読んでいて、子供のころを思い出しました。そういえば、転校生ってあんな感じだったなあと。

突然、知らないところからやってきた子はなんとなく謎めいて見えて、みんな興味しんしんで休み時間に遠慮がちに話しかけて…。

転校していった仲が良かった友達のことも思い出しました。

神戸の宝塚というところへ引っ越すんだよ~という前の日、お別れにその子の家へ遊びに行きました。もう遊べなくなるんだなあと思って寂しくなったのを思い出します。

翌日、学校の帰りにその子の家へ行ってみたらもう誰もいなくなっていて、ああ本当に居なくなっちゃったんだなあ…と。

急にやってきたり、いなくなったり、子供の頃、転校生って本当に又三郎みたいだったなあと50歳になったいま改めて思い出しております。

嘉助の最後のところのセリフが絶妙です。又三郎が突然転校していったことを先生から聞かされて、

「先生、(又三郎)飛んで行ったのすか?」







5’10”フィッシュ、クラシックログととりあえずは自分が次に乗りたいボードの仕込みは終わって、フィッシュは出来上がり待ち(おそらく来週か再来週には完成)でクラシックログは特注フォームの出来上がり待ちで、次の波もしばらく期待薄という状況なので、アタマは少し波乗りから離れています。

そんな今、夢中なのはこれです。波乗りばっかりじゃいけません。

歴史小説がお好きな方なら同感いただけるかもしれませんが、明治維新から太平洋戦争までの時代をテーマにした小説というのは本当に少ないと思います(いい本ご存知の方は教えてください)

田原総一郎がどういう人かはよく知りません。興味がある時代をテーマにしているので、まずは読んでみることにしましたが、これが面白い。

明治維新からどのように日本が帝国主義へ走り、最終的には破滅的な戦争へ突入していったのか、今の時代においてとても時事的なテーマだと思います。

これを始めに、この時代を題材にした本を片っ端から読んでみようと思います。色々な人の著書を読んでみれば、何か見えてくるんじゃないかと思います。

そして、夏目漱石。

歴史と文学ですっかり文藝部ですが、体育会系も忘れちゃいません。

ムラサキ色の足指はようやく治ってきたようで、ファイブフィンガーズを履いてもそれほど痛くなくなりました。

今朝はファイブフィンガーズで10キロほど走ってみましたが、フクラハギも戻ったみたいです。腰は姿勢に気をつけていたらイヤな感じは無くなりました。普段の姿勢は大事です。

本を読み、走って、体幹を強化しながら、次の波を待ちたいと思います。

時間はかかりましたが、カラダは出来てきて自分がやりたいと思っているサーフィンに近づくことが出来ていると思います。波乗りは死ぬまで続けていくつもりなのですが(笑)この辺でカラダをキープしつつ文藝部方面で新しいことをやってみたいという思いが強くなっています。

50の手習い、果たして何かできるのか?自分に期待です。

生徒じゃなくて50のおっさんでもいいでしょ、宮沢賢治さん。

生徒諸君に寄せる 宮沢賢治

中等学校生徒諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である

諸君はこの時代に強ひられ率いられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか

今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や特性は
ただ誤解から生じたとさへ見へ
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ

むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ

諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ

宙宇は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるか

新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ
 
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て

衝動のやうにさへ行われる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ

新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ

新しい時代のダーヴヰンよ
更に東洋風静観のキャレンジャーに載って
銀河系空間の外にも至り
透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ
おほよそ統計に従はば
諸君のなかには少なくとも千人の天才がなければならぬ
素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである

潮や風……
あらゆる自然の力を用ひ尽くして
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ

ああ諸君はいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じないのか


読んでいると、気持ちだけは30年前に戻れそうな気がします。





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