MENEHUNE BEACH STORE 店主のブログ
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プロフィール
HN:
menehune
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/09/15
職業:
サーフショップやってます
趣味:
ランニング、作文、お絵かき、料理、丸太切り、丸太割り、波乗り
自己紹介:
ショップのオープンは2001年。それ以来、ロングボードをベースに、フィッシュ、ボンザー、シングルフィン、ニーボード、パイポとさまざまな種類のサーフボードを作り、試してきました。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
還暦を過ぎて、BASIピラティスのマットインストラクターの資格を取得。年齢に関係なく調子良く動けるカラダ目指しています。
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お知らせ:8月11日(火)~8月13日(木)は休みます。よろしくお願いします。
8月9日は長崎に原子爆弾が落とされた日です。長崎で育った被爆二世の私にとっては特別な日です。私の母は爆心地から、1.8キロメートルの場所で被爆しました。
今日と同じように暑い日です。14歳だった母は配達された煮炊きに使う薪を妹と片付けていたところ、巡査の姿が見えたので慌てて家の中へ薪を運び込んだところへ原子爆弾がさく裂しました(薪は闇だったそうです)
薪が来たのが別の時間でお巡りさんが来ていなかったら、私は今ここに存在していなかったかもしれません。祖母の家があった場所は南側が小高い丘になっていて、ちょうどその影に隠れる形で爆風を避けることができたのかどうかは分かりませんが家の倒壊は免れました。
家から出てみたら、周りは吹き飛ばされて何も無くなっていたそうです。
爆心地の方から逃げてくるひどいヤケドをした人たちの群れ、水を求めてやってきて川の中で亡くなった人たちのたくさんの遺体を見た話しを良くしていました。
放射能を浴びた母は髪が抜け、身体に紫いろの斑点が出て起き上がることもできなくなったそうです。同じようにケガもなく元気だった人が、急に髪が抜けはじめ、紫斑が出て亡くなってしまうことがたくさんあったので、祖母はもうこの子はダメだと諦めたそうですが、母は生きました。
私が生まれる前のことは知りません。でも私が小学生の頃には髪の毛は多く生えず、いつもカツラをかぶっていたと記憶しています。改めて女性としての母の気持ちはいかばかりだったのかと思います。
昨日、ニュースに出ていた被爆三世の方が言っていたことがあります。長崎で8月9日の11時2分に鳴る黙とうのためのサイレンは、日本全国で鳴っているものだと思っていたということです。私も同じように感じた記憶があります。
長崎では、夏休みの最中ですが8月9日は登校する日です。学校へ行って原子爆弾のことを勉強する日です。そのための読本もたくさんあります。
原爆資料館は、もしかすると行かれた方もおられると思います。昔は今よりももっと直接的でした。おそらく今の子供たちが当時の資料館へ行ったなら、子供にこんな刺激が強いものを見せてと親からクレームが付くのではないかと思います。
でも現実に起きたことはそれをはるかに超えた惨劇です。原爆のことを知ろうと考えて本を読み、資料館に何度も足を運んだ小学生の私にとって、かなり強烈な体験でした。
二世の自分にも影響があるのだろうかという放射能という目に見えないものへの恐怖。何かよくわからない、つかみどころが無く漠然としている中に確かに何か恐ろしいものが存在しているような感覚です。
40数年経った今から思えば、おーいそんな心配しなくていいぞーとその頃の自分に言ってあげたいですが、被爆者の子供の心にも影を投げかけるのが原子爆弾という存在です。それが通常兵器と違うところです。
母は三年前に亡くなりました。戦後75年経って、その当時の経験を直接語ることができる人たちが少なくなっています。
原爆に限らず、戦争の体験を風化させずにどうやって引き継いでいくのか。私が話せるのはここに書いたことぐらいです。被爆二世だということで、多少重く受け止めてもらえそうな程度です。それでも、毎回同じ話になってしまうとは思いますが、毎年8月にはこの話をしていきたいと思っています。
コロナのせいでそうもいきませんが、長崎のきれいな海に遊びに行きたくて仕方ありません。東シナ海は波もありそうだし 笑。
サンプルが到着しました。明日はこれの話をしたいと思います。
お楽しみに。
いつものランニングコースではロゴマークのロータスが花盛りです。
8月9日は長崎に原子爆弾が落とされた日です。長崎で育った被爆二世の私にとっては特別な日です。私の母は爆心地から、1.8キロメートルの場所で被爆しました。
今日と同じように暑い日です。14歳だった母は配達された煮炊きに使う薪を妹と片付けていたところ、巡査の姿が見えたので慌てて家の中へ薪を運び込んだところへ原子爆弾がさく裂しました(薪は闇だったそうです)
薪が来たのが別の時間でお巡りさんが来ていなかったら、私は今ここに存在していなかったかもしれません。祖母の家があった場所は南側が小高い丘になっていて、ちょうどその影に隠れる形で爆風を避けることができたのかどうかは分かりませんが家の倒壊は免れました。
家から出てみたら、周りは吹き飛ばされて何も無くなっていたそうです。
爆心地の方から逃げてくるひどいヤケドをした人たちの群れ、水を求めてやってきて川の中で亡くなった人たちのたくさんの遺体を見た話しを良くしていました。
放射能を浴びた母は髪が抜け、身体に紫いろの斑点が出て起き上がることもできなくなったそうです。同じようにケガもなく元気だった人が、急に髪が抜けはじめ、紫斑が出て亡くなってしまうことがたくさんあったので、祖母はもうこの子はダメだと諦めたそうですが、母は生きました。
私が生まれる前のことは知りません。でも私が小学生の頃には髪の毛は多く生えず、いつもカツラをかぶっていたと記憶しています。改めて女性としての母の気持ちはいかばかりだったのかと思います。
昨日、ニュースに出ていた被爆三世の方が言っていたことがあります。長崎で8月9日の11時2分に鳴る黙とうのためのサイレンは、日本全国で鳴っているものだと思っていたということです。私も同じように感じた記憶があります。
長崎では、夏休みの最中ですが8月9日は登校する日です。学校へ行って原子爆弾のことを勉強する日です。そのための読本もたくさんあります。
原爆資料館は、もしかすると行かれた方もおられると思います。昔は今よりももっと直接的でした。おそらく今の子供たちが当時の資料館へ行ったなら、子供にこんな刺激が強いものを見せてと親からクレームが付くのではないかと思います。
でも現実に起きたことはそれをはるかに超えた惨劇です。原爆のことを知ろうと考えて本を読み、資料館に何度も足を運んだ小学生の私にとって、かなり強烈な体験でした。
二世の自分にも影響があるのだろうかという放射能という目に見えないものへの恐怖。何かよくわからない、つかみどころが無く漠然としている中に確かに何か恐ろしいものが存在しているような感覚です。
40数年経った今から思えば、おーいそんな心配しなくていいぞーとその頃の自分に言ってあげたいですが、被爆者の子供の心にも影を投げかけるのが原子爆弾という存在です。それが通常兵器と違うところです。
母は三年前に亡くなりました。戦後75年経って、その当時の経験を直接語ることができる人たちが少なくなっています。
原爆に限らず、戦争の体験を風化させずにどうやって引き継いでいくのか。私が話せるのはここに書いたことぐらいです。被爆二世だということで、多少重く受け止めてもらえそうな程度です。それでも、毎回同じ話になってしまうとは思いますが、毎年8月にはこの話をしていきたいと思っています。
コロナのせいでそうもいきませんが、長崎のきれいな海に遊びに行きたくて仕方ありません。東シナ海は波もありそうだし 笑。
サンプルが到着しました。明日はこれの話をしたいと思います。
お楽しみに。
いつものランニングコースではロゴマークのロータスが花盛りです。
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